meeting with remarkable people [067]
カリール・ジブラン
1883-1931

30種以上の言語に訳され、世界中の人々に愛読される、
『THE PROPHET(預言者)』という本がある。
著者は、レバノンで生まれ、移民としてアメリカに渡った
カリール・ジブランである。
伝説的な本を残した、彼の一生を追ってみたい。

1883年、現在のレバノンの山間部、標高1400mにある
ビッシャリ村で、カリールは生まれた。
父は、詐欺と脱税のために投獄されるなど、
善良な人間ではなかった。
住む土地も没収され、貧困の中で育ったカリールは、
教育も受けられず、孤独に考え込む子どもであった。
無教養だが強い意志を持つ母は、親戚を頼って
アメリカ移住を決意する。

1894年、11歳の時、母と兄弟と共に渡米。
ボストンに居を構えたが、生活は貧しく、
母は、行商人として生活費を稼いだ。
貧困移民としての環境は厳しく、家族の中で、
カリールただひとりが、学校教育を受けられることになった。
13歳の時、ボストンで設立された、スラムと移民の子どもの
芸術的才能を援助する団体(デニスンハウス)で、
彼は、知と芸術に対する刺激を受ける。

1897年、14歳の時、アラビア語をマスターしたいという
願望をもち、一時レバノンへ帰国。
ベイルートのハイスクールで高等教育を受けた。
15歳の時、『THE PROPHET(預言者)』の草稿を
アラビア語で書く。
「私はこの本を書くために生まれてきたのだ」と
後に彼は語っている。

1902年、19歳の時、ボストンへ戻る。
この年、結核で母を含む家族3人を失う。
21歳の時、ボストンのアメリカンスクールの女性校長、
メアリーと出会う。
彼女は、カリールの芸術活動のサポートをするようになり、
後には恋仲にもなっていく。

1905年、22歳の時、アラビア語の散文詩『音楽』で
文壇デビュー。
25歳の時には、2年間にわたりパリに滞在。
美術学校に学び、ロダンに師事したといわれる。
ロダンは、美術・文学両面にわたるジブランの才能を愛し、
現代のウイリアム・ブレイクにたとえて絶賛した
また、音楽家ドビュッシーらとも交遊を結んだ。

27歳でボストンへ戻った彼は、
アメリカのアラブ移民の文学者サークルの中心人物となり、
生涯の親友となるミハイル・ナイーミと出会った。
1912年、29歳の時、唯一の小説、アラビア語で書いた
『壊れた翼』をニューヨークで発表。
定住先をニューヨークに移す。
この頃、ユングにも出会った。

1916年、33歳の時、オスマントルコの支配が強まり、
母国は飢餓に苦しんでいた。
カリールは救済基金を集める活動を始める。
35歳の時、英語による初の著書『THE MADMAN(狂人)』を出版。
1920年、37歳の時、『THE FORERUNNER(先駆者)』を発表。

1923年、40歳の時、ついに20年以上にわたる推敲を重ねた
『THE PROPHET』を英語で出版。
一躍ベストセラーとなり、国際的な作家としての地位を築く。
この作品は、彼が最も傾倒し尊敬していた思想家ニーチェの、
『ツァラトゥストラかく語りき』から受けた、
深い感銘によって生み出されたと言われている。

長く援助を受け、恋人だったメアリーとは、
この頃別れることとなった。
名声を手にした彼だが、体の不調と痛みで、
禁酒法にもかかわらず大量のアルコールを飲むようになる。
1931年、48歳の時、結核と肝硬変のため、
48歳の若さでニューヨークの病院にて死去。
死後、彼の希望どおり、遺体は故郷の村の修道院に葬られた。

アメリカとアラブは、現在、非常に緊迫した関係になっている。
ジブランは、その境界を越え、普遍的な知の在り方を示したと
言えるのではないだろうか。



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