SPECIAL INTERVIEW #19

変えることは、続けること。

法相宗大本山興福寺 録事
ザイレ暁映(ぎょうえい)


2019年、ドイツ人僧侶のザイレさんは法相宗の僧侶が生涯に一度しか受験できない「竪義(りゅうぎ)」を突破。竪義は「正しい義(解釈)を堅てる」という意味で、仏教の伝統教学の口頭試問の一種。法相宗の竪義は、11月13日の「慈恩会(じおんえ)」という法要の後、1時間半から2時間かけて開催。そのための「前加行」(ぜんけぎょう)では3週間、行部屋に籠もり、鎌倉時代から室町時代にかけて書かれた経典を漢文や古文のまま丸暗記する必要があった。


2500年間の蓄積を
今に生かすのが使命

 竪義に受かるまではさぞかし大変だっただろう。まずそのあたりを聞いてみた。
「海外出身の僧侶としては1000年間で初ということで騒がれましたが、大学院で仏教学を専攻していましたので、若い日本人に比べて漢文もそこそこ読めますし、写本の崩し字もある程度慣れています。前加行の間はとても忙しいけど、地味です。高校生と一緒で、完全に受験勉強です。『竪者(りっしゃ)」(いわば受験者)はこの間、『座睡』といいますが、座布団に座ったまま寝ます。横になれないように四方を囲まれているのです。たとえるなら3週間、24時間ずっと飛行機に乗りっぱなしの感覚です。そこでずっと受験勉強しているわけです」

 こう聞くと、とても大変そうに思えるが、ザイレさんはそうでもないと言う。「周りのことを何も気にせず、一つのことに集中できるので本当に幸せです。それらの期間が終わった時点で「本行(ほんぎょう)」、つまり本当の修行が始まるわけです。そこで得たものを普通の生活に戻った時にどれだけ持っていけるのか。そこが本当に難しいところです」
「そこで得たもの」とは何なのだろう?
「仏教には全能の神様がいるわけではありません。最初にいたのはシッダールタ、釈尊という人です。その人の教えが2500年前のインドからずっと受け継がれて、多くの賢い方が『人間とは何なのか、なぜ生きることが辛いのか、生きることはどういう意味があるのか』といった非常に現実的なことを考えていたのです。2500年の膨大な体験の蓄積が仏教です。この蓄積は、とても実用的で、私たちの今の日常生活において意味があります。そういった仏教の伝統的なものを残しつつ、現代に合うよう形や言葉を変えて伝えていくのが自分に与えられた課題だと思っています」

唯識の教えに基づけば
世界は変えられる

 興福寺は法相宗(ほっそうしゅう)の大本山。法相宗は、4~5世紀インドの北西地方で大成された「唯識(ゆいしき)」の教えを受け継ぎ、唯識宗とも呼ばれる。この唯識にまつわるサンスクリット語の仏典を、7世紀にインドから中国(唐)にもたらし漢訳したのが、三蔵法師として親しまれている玄奘で、法相宗はほどなく日本に伝わった。

 唯識宗の世界観とはどのようなものか、ここで少し紹介しておこう。唯識説の要義を、30の詩文によって体系的にまとめた『唯識三十頌』(世親著)からの抜粋だ。

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すべてはわが心の展開であり、
あるのは、
唯識(ただこころ)だけだーー。
どんなものも、不変で
実体として有るとはいえない。
すべては、変化のさなかに
一瞬一瞬有る。
その世界は、まさにわが心が
つくり出したものなのです。

多川俊映 著
『唯識とはなにか 唯識三十頌を読む』
(角川ソフィア文庫)より抜粋

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 「私たちは通常、世界が存在し、その世界を受け身的に中に取り入れて生きていると思っています。しかし、法相宗の考え方は逆です。『自分の心の中から世界をつくり出している』という考え方なのです。実際に存在するのは最終的に自分の心の認識だけ、というのが唯識です」
こう聞くと、哲学の認識論であるかのようにも聞こえる。宗教としての仏教での唯識とはどういうものなのだろうか。
「自分が自分の世界をつくり上げているのであれば、その世界を変える力が自分にあるはずだということです。目の前にあるものは地獄であるか、天国であるか、決めるのは私たち自身なのです。
仏教では生まれた状況とか環境などは容易に変えられなくても、価値観のレベルではある程度、自由に変えることができるとしています。ある状況が苦痛だと決めるのが自分なのであれば、考え方を変えればその苦痛を和らげることができる、ということです。人間の肉体的、そして特に精神的な苦痛の原因は自分だからこそ、改善する力も自分にあるのです。
それに気づくことができれば、少しずつ変えることができます。世の中の諸関係が変わらなくても自分を変えることはできます」

この世の「天国」で
自殺者が多いわけ

 ダライ・ラマ14世が日本を訪れた際に「今の日本は世界中の国の中で、仏教が説く天国に最も近い」と述べたことがあるという。この言葉にザイレさんは注目している。
「天国では、すべてが完全に満たされている状態です。しかし仏教では、そのような意味での天国をあまり高く評価していません。なぜならそこでは自己改善をしようとする理由が何もなく、精神的な面で欠けている環境といわざるをえません。
 こういうことを考え始めたきっかけの一つは、日本が先進国の中でも自殺率が異常に高いからです。私はドイツ・アメリカ・日本に住んだ経験がありますが、物質的な面からすると日本が一番豊かです。しかし、日本人は幸せか? と尋ねられると何かちょっと違うような気がします。
 ドイツ人である私の観点からすると、現代の日本社会は極端に消費主義だと思います。しかし物自体が大事ではなくて、物が手に入れば幸せになれるとか安心するとか、要は『私』を肯定しようとしているのですね。おそらく、虚しく感じている自分を物によって肯定しようとしているのでしょう。
いわば自分に嘘をついているだけです。しかも、自分の心の中では嘘をついているとわかっている。だから苦しいのです」

自分を見つめ、
許すということ

 日本人の一人としては、耳が痛い指摘だ。ではどうすればいいのか?
「仏教の原点は自己観察だと思います。瞑想と聞くと、すごく難しく聞こえるかもしれませんが、まずは単純に自分に目を向けて考えることです。『私はいったい誰なのか?』とか、『私はなぜこのような生き方をしているのか?』『なぜこのようなことをやろうとしているのか?』といったように、まず自分のことを少し考えてください。
私たちはたいてい、自分のことを考えるのが苦手です。おそらく、理想と現実との差があるので、ありのままの自分がちょっと見苦しく感じるのだと思います。そこで大事なことは、ありのままの自分を許すことです。これがすべての始まりです。まずは、自分のことを少し理解しようとすること。そして、出てくるものをまずは許すこと。自分の良いところも悪いところも素直に認めることが、すごく大事だと思います。
その上で、自分に今幸せか聞けばいいと思います。しかしこの質問もたいていの人は嫌がります。非常に不都合な質問ですよね。そこで『やっぱり幸せじゃない』と思った時は、なぜ幸せじゃないのか聞いたらいいと思います」

何気ない日常生活の
中に修行がある

 「私たちは非常に厳しい修行をすることがあります。『しんどいでしょう』と聞かれることがありますが、一番難しいのは日常生活だと思います。この10年間の経験を振り返って修行の一番難しいところを考えてみると、『退屈』だと思うのです。退屈とはもともとは仏教の専門用語で、何か行なっている途中で諦めてしまい、正しい道を外してしまうことです。どんな形でも、諦めないこと、退屈に負けないことが一番難しいことじゃないかと思います。
 私たち法相宗の根本的な経典に、『成唯識論(じょうゆいしきろん)』という著作があります。玄奘三蔵によって漢訳された、もしくは書かれたといわれているものです。その中で私の好きな言葉に『練磨自心 勇猛不退(れんまじしん ゆうみょうふたい)」という8文字があります。訓読すれば「自心を練磨して、勇猛にして退せず」で、自分の心を磨いてください、ということです。めちゃくちゃ地味なことですが、少しずつ磨き続ければ人間の心も変わります。
 私がお寺に入って僧侶になった最初の頃、『練磨自心 勇猛不退』の最初の4文字はカッコいいと思いましたが、なぜ勇気が必要なのか、別になくてもいいのではないかとも思いました。
 しかし、今になって少しわかってきた気がします。最初の一歩を踏み出すのは勇気が必要なのです。同時に、途中で絶対退屈になってしまいますから、途中であっても、一歩一歩に勇気をもたないと何も変わりません。成功しなくても、途中でちょっと形が変わっても、ちょっと失敗しても苦しくても、そういうことはあまり気にしない。それと、環境にもこだわらない。ですから、例えばお寺にもこだわらないということです。宗教とか、仏教といった言葉にもこだわらない。それは大事だと思います」


ザイレ暁映(ぎょうえい)

1978年ドイツ・ハンブルク生まれ。89年に米国に移住し、カリフォルニア大バークレー校で日本の古典文学を専攻。大阪外国語大学大学院(当時)への留学などを経て、2010年龍谷大客員研究員に。11年に興福寺で出家得度。19年には難関の口頭試問「竪義」を突破し話題になった。