「はてな?のこころ」は、1996年の『NewsLetter』に掲載された池田晶子さんによるエッセイです。
予めご理解のうえお楽しみください。

ARCHIVE #27

はてな? のこころ 1996

池田晶子
「脳」

脳で考える
と誰もが思っている。
心とは脳のことである
私とは脳のことである
と、誰もがそう思っているのだ。

 しかし、これは本当だろうか。私にはどうしてもそうは思えない。と言うと、百人が百人、妙な顔をする。しかし考えているのは脳であり、私の心とは脳のことであるという「思い込み」、この思い込みを助長しているのは、言うまでもない、科学である。科学が扱うものは、目に見え手で触れられるもの、すなわち物質である。この場合それは、脳、物質としての脳である。

 ところで、「心」、そんなものを誰が見たことがあるか、触れたことがあるか。「私」を誰が見たか、触ったか。脳をどこまで腑分けしていっても、「心」も「私」も出て来ない。この部位が「心」であり、この細胞が「私」であると、ピンセットでつまみ上げることは絶対にできないのだ。なぜなら、「心」も「私」も物質ではないからである。物質しか扱えない科学には、物質ではない「心」や「私」は扱えないのだ。なのに科学は自分を万能と信じているから、「私」とは脳であり、脳を扱うことで「私」を扱うことができると思い込んでいるのだ。仮に科学の言う通り、「私」とは脳だとする。ところで、科学の大前提は、主観と客観を厳然と分けておくことだった。「私」とは主観であり、客観としての自然とは別物であると。

 とすると、自然物である脳であるところその「私」、これは主観か客観か。「私」は自然とは別物である。よろしい、では「私」であるところの脳を作ったのは、私か。私の脳を作ったのは私なのか。私の脳を作ったのは、他でもない、自然すなわち宇宙ではなかったか。すると、脳において、主観と客観とをいかにして分けることができるのか。

 しかし、本当の問題は実はこれではない。すると「私」はどこに居ることになるのか、これである。脳ではないところの「私」は、するとどこに居ることになるのか。私は脳である、この考えは実にわかり易い。わかり易い以上に実は、これは認識の安全弁のようなものであって、これがはずれてしまうと、かなりアブナイことになるということを、皆どこかでうすうす知っているのに違いない。


池田晶子 / 文筆家
1960年ー2007年 文筆家。東京生まれ。
慶應義塾大学 文学部哲学科卒業。著書に『帰ってきたソクラテス』『オン! 埴谷雄高との形而上対話』『悪妻に訊け』『さよならソクラテス』『メタフィジカル・パンチ』『14歳からの哲学』『事象そのものへ!』『メタフィジカ!』など他多数。

わたくし、つまりNobody賞
https://www.nobody.or.jp

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