Feature 22
もう一杯のコーヒー

Photo by Nathan Dumlao on Unsplash
イタリア、ナポリの伝統的な習慣、「カフェ・ソスペーゾ」。ソスペーゾとは保留されたという意味だ。コーヒーを注文する時、二杯分の代金を支払う。一杯はその時に自分が楽しみ、もう一杯分のレシートは店頭の容器に入れる。その時に提供されなかったコーヒーは、後からやって来る誰かがそのレシートでコーヒーを注文するまで、保留されている。
一杯のコーヒーを楽しむことを見知らぬ誰かと分かちあうこと。たとえ余裕が無くても知らない誰かが、コーヒーといういかにも人間らしい嗜好をもたらしてくれること。小さな助け合いカフェ・ソスペーゾだが、コロナ禍の経済不振では、スーパーマーケットなど生活必需品を扱う場でも行われ、コーヒー以外にもこの習慣の輪が広がった。カフェ・ソスペーゾは古くから続く草の根的連帯の象徴であり、危機的な状況ではその形を変え、より大きなサポートを人々に提供した。
物質的に豊かになることを「余裕ができる」と表現するが、そうなった時に、果たしてその余裕を手放し、誰かに手渡すことができるだろうか。手にしたものが小さければ、欲もそれなりに小さいままだが、それが大きくなると、欲もまた比例し、時に肥大していくように見える。そして、その桁や規模、巻き込まれた人々の数に呆然としてしまうこともある。一方で、一杯の温かい飲み物を誰かのために保留するという、ささやかな分かちあいを美徳とするのもまた人間らしい価値観だ。そこに温かさを感じる時、小さくても自分にできることは何かと問い続けることができるのではないだろうか。
本来ビジネスの場で使用された自己責任という言葉は、いつの間にか日常生活にも入りこみ、利益は自分の力で生みだし、そこで起こる結果は全て自分で引き受けるべきだとあらゆる場面でいわれるようになった。そのような自己完結的な社会で利他的になることは可能だろうか。『思いがけず利他』で著者は、利他は思いがけず向こうからやってくると語る。コーヒーを保留してくれるカフェがあるからこそ、誰かにコーヒーを贈ることができる。カフェと自分との出会いも偶然の一つといえそうだ。利害や合理を超え、人々を繋ぐ方法を探る。
制度の外で起こる、バラバラで無秩序な異議申し立てやデモ、そうしたものによって人間の自由への解放が達成されてきたと『実践 日々のアナキズム』は提示する。組織化されない人々の行動が偶発的に重なり合い、それによって何かが達成されてきたという論には、思いがけない厄災だったコロナ禍で、自然発生的に生まれた支えあいの仕組みを思い出させる。パンデミックが収束してまだ数年、のど元過ぎれば熱さを忘れるというが、その時に生まれた支えあいの精神と仕組みは、果たして今も残っているだろうか。
妊娠中絶は現在でも違法とされる国が多い。アメリカでも中絶の権利を認めるロー対ウェイド判決を覆す判断が示されるなど、社会や宗教的価値観によって容易に許容されることのない行為であると同時に、女性が自分自身について選択、決定する、自己決定に欠かせない権利の一つでもある。『ジェーンの物語』は1960年代から70年代前半まで、アメリカで中絶が合法化されるまでの間、多くの女性たちに安全な中絶を提供した地下組織「ジェーン」の活動の記録だ。必要なものは必ずしもトップダウンではなく、支えあいからも生み出される。
貧困対策、特に豊かなリソースを背景に子どもたちを育むことは、国が行うべき緊急かつ恒久的な課題のはずだ。しかし、それが追いつかない時には、人々が知恵と労力でお互いを支えあうことになる。「夜のパン屋さん」、「大人食堂」などの活動に取り組む著者による『捨てない未来』、地域の子どもを見守り、育てる活動を展開し、子ども食堂運営や子育て支援を行うNPOによる『子ども食堂をつくろう!』、さまざまな理由での就業や住まい、生活の困難を支援するNPOによる『つながりゆるりと』。実はすぐそこで行われている、具体的な支援活動が見えてくる。
適者生存するだけではなく、相互扶助を行う生物たちこそが生き延び、進化を遂げていくと『相互扶助論』は説く。ダーウィンが唱えた進化論の中で使われた「生存競争」という言葉。実は狭い領域の中で適用された言葉だったが、それまでの生物観を覆したインパクトと共に意味が単純化し、拡大解釈され、経済などにも使用されるようになった。厳しい野性の自然の中にあっても、競争だけで生命は生き延びるわけではない。相互を支持するということは、一人ひとりが感情や意見の対立をも超え、現にそこいる人々の存在を認識するということだ。保留されたコーヒーを手にする人がどんな人かはわからない、しかし一杯のコーヒーを必要とする人がいる現実を確かに認識することができる、そんな成熟した大人になることを意味しているのではないだろうか。
思いがけず利他
中島岳志
ミシマ社
1760円(税込)
実践 日々のアナキズム
世界に抗う土着の秩序の作り方
ジェームズ・C・スコット
岩波書店
3080円(税込)
ジェーンの物語
伝説のフェミニスト中絶サービス地下組織
ローラ・カプラン
書肆侃侃房
2750円(税込)
捨てない未来
キッチンから、ゆるく、おいしく、フードロスを打ち返す
枝元なほみ
朝日新聞出版
1980円(税込)
子ども食堂をつくろう!
人がつながる地域の居場所づくり
NPO法人豊島子どもWAKUWAKUネットワーク
明石書店
1540円(税込)
つながりゆるりと
小さな居場所「サロン・ド・カフェ こもれび」の挑戦
うてつあきこ
自然食通信社
1760円(税込)