SPECIAL INTERVIEW #18

BE YOURSELF

「自分色」は、「自分だけの色」じゃなかった

映画監督・フォトグラファー
高橋慎一


ホームビデオで撮った映像からすべてが始まった映画がある。「好き」という情熱と、「今、映画を撮らなければ切腹する」とまで思い詰めた衝動が合わさった時、想いは結晶化し、一編の映画という形となった。幾度も海を越えて撮影したその映画は、人々の口コミにより日本全国へと広がり、再び幾つもの海を渡って公開されている。キューバのミュージシャンを追った音楽ドキュメンタリー映画、『Cu-Bop キューバップ』の生みの親である高橋慎一監督に話を伺った。


「カメラはなくても、映画はできる」

 「“マラソンのアベベは裸足で走って金メダルを獲った。カメラはなくても、映画はできる”。そう言って、友人が家族を撮っているビデオを借りたんです」と、高橋さんは最初の撮影ロケを振り返る。機材がないどころか、それまで映画撮影の経験すらなかった。高橋さんの生業は、音楽関係のカメラマン兼ライター。しかし、請負い仕事を続けていくことに「何のアクションも自分から起こせない」と危機感を抱いた彼は、音楽好きが高じて通っていたキューバのミュージシャンの演奏を音源にレコードレーベルを立ち上げることを思いつく。10代の頃からパンクロックにハマっていた高橋さんにとって、録音からレコード会社への卸しまで自分たちが手がけるという流れは、ごく自然な発想だったのだ。自らのレーベル会社ならば、たとえ小規模でもすべてコントロールが利く。

 かくして、キューバで知り合った民族音楽研究家の友人が語学と音楽面を、高橋さんが制作、プロデュースの担当をというコンビを組み、「カミータレーベル」が産声を上げた。カメラマンと自主レーベル会社運営という二足のわらじ生活が転機を迎えたのは、2011年の東北大震災の年のこと。

 震災直後に長期ロケに赴いたグアテマラで、高橋さんは生活力たくましく生き抜く少年と出会い、心を揺さぶられる。高橋さんはその時の心情をこう述懐する。「帰ってきて震災後の日本を見て、『こんなことでいいんだろうか。グアテマラの子供たちはあんなに強く生きているのに』って思ったんです」。
 2010年頃からレコード全般の売り上げが劇的に鈍化したことに加え、カメラマンとしてのキャリアにも疑問を覚えて「ぬるい自分が許せなかった」高橋さんにとっては、すべてが悶々としていた時期だったのだ。また、その頃、若い編集者から『キューバ関連以外、仕事の依頼を受けないというほど思い切るべきだ。さもないと、そこそこ写真が上手いのが取り柄というだけのカメラマンで終わってしまう」と言われる。この愛のこもった助言も引き金となり、高橋さんは映画の道に進むべく、一念発起する。
 脳裏にはいつも、人生の師と仰ぐアントニオ猪木の言葉「99%と100%の間には、越えられない壁が存在する。100%、お前の人生をお前色に染め上げろ」があった。しかし、「99%どころじゃない、30%ぐらいしか自分を出してないぞ」と感じた高橋さんは、何が何でも年内に映画を撮るという決意を固め、背水の陣を敷いたのだった。

「映画の神様はいる!」

 「今年中にキューバに行って映画を撮らないと、切腹するから!」と周囲に宣言して自分を追い込んだ状態でキューバ入りしたのは、年の瀬も押し迫った12月29日のことだった。翌日、アポなしで知り合いのピアニスト宅を訪ねる。「日本だったら、この年の瀬に何だ? と思うじゃないですか。でも、そんなこと何も言わないで、僕がハンディカム持っていることも不審にも思わずに、『よう、久しぶり』って、ピアノの演奏を快諾してくれました」。この時に撮った「ムーンリバー」の演奏は、後に映画の印象的なシーンの一つとなる。「切腹しないで済んだ」と胸を撫で下ろしたのは良いものの、数年間に亘る映画製作は、亡命キューバ人をキューバに帰国させての撮影や、キューバ政府の演奏妨害、資金繰りなど、困難な壁が次々と立ちはだかった。しかし、高橋さんはそれらを問題として捉えることはなかった。「物理的には全てが大変だったんですけど、基本的には、撮っている間中、超面白い状態っていうんですか、“こんな充実した人生が僕に訪れるのか”」と、ワクワクしていたからだ。

 そしてこんなエピソードもある。資金調達に悩んでいた折、クルマで信号待ちしていると、いきなり後ろから衝突されるという災難に見舞われる。ところがこの瞬間高橋さんは「やったー!」と喜びの声を上げる。なぜか。事故の慰謝料が入るから。「映画の神様っているんだ!」と思った高橋さん。それほど、映画の魅力にすっかり取り憑かれていたのだ。慰謝料で手に入れた新品の三脚を携え、クライマックスシーンとなるキューバでのコンサート演奏に駆けつけるべく、大口の写真撮影の仕事を断った時も、周囲を唖然とさせたという。

 こうして作品は完成に漕ぎ着けたが、最初は周囲からの芳しい反応は得られなかった。しかし、LAでのワールドプレミアム上映後、知名度と人気は徐々に高まっていき、渋谷のアップリンク渋谷では連日超満員となり、半年余りに及ぶ異例のロングラン上映記録を樹立する。「Cu-Bop」の波は、瞬く間に日本各地での上映へと広がり、アメリカ、ケニア、香港、カナダへとその範囲を広げ続けている。

「人の顔色を見なくなりました」

 『Cu-Bop』の魅力に取り憑かれたのは、観客だけではない。作品に魅入られたプロの映画人たちが、台本やナレーションを入れて作品をブラッシュアップしたいと声を上げたのだ。彼らが編集や整音、プロデューサーとして携わり、世界のどの劇場での上映にも通用する『Cu-Bop across the border』として編集し直した。「俺の感性でつなげばいいんだ。猪木は『100%の自分を出せ』って言っているし」と作品の完成までひた走った高橋さんだったが、この過程をプロからの映画制作レッスンのようなものであり、「次のステップに行く必要な作業だった」と有難く受け止める。

 プロの編集者の凄腕を目の当たりにした高橋さん。長年のファンであるロックバンド、ザ・フールズを追う二作目の『THE FOOLS』では、最初からドキュメンタリーのプロ編集者を制作チームに加えた。

 「やっぱりその道のプロはすごい。10年分の撮影素材を全て洗い出して、全部文字化して精査していて、彼の方が作品について詳しいと思います。僕の作品というより、彼の作品なんじゃないかっていうほどです」と高橋さんは笑う。心境の変化は、映画の制作方法だけではない。プライベートでは、子供が生まれ、父親としての責任ができた。だが、気分的には「スッキリしているんです、今」と晴々と言い切る。若い頃は「仕事を切られたらどうしようとか、ビクビクおどおどして、つまんない写真ばかりを撮っていた」という。「でも、今は子供ができて、『こいつを食わせるためには、空き缶拾いでも土方でも、なんだってやるよ』って感じなので、開き直って自由に撮ってます。原稿も自由に書いて。その方が、作品も原稿も写真も本当に良くなりました。ベストは尽くしますけど、人の顔色を見なくなりました」。

 映画の女神には、まだすっかり魅入られているようだ。「次作は、キューバの子供たちを主人公にして、音楽教育のすごさを撮影したい」と、三作目の意欲を燃やす。40半ばを越えてから映画の道に入った高橋さんだが、「おっさんになって自我というものが程よく壊れ、誰に何を言われても『有難いな』ってなった時に映画を撮ったので、良かった」と自らを分析する。

 映画作りを通じて学んだ最大のレッスンは、謙虚になれたことと、人に寛大になったことだという。「人に対して怒ったり、イライラしたりということが無くなりました。『できないならできないでいいんだよ、こんな俺の映画だからさ』っていう風になれました。皆が集まってくれて「監督、これ ちょっと、どうにかしましょうよ」って、人様に助けられて成立しているんだなあと思います」。

 「100%、自分色に染め上げる人生」を、高橋さんは「好き」という情熱の炎を道しるべに、様々な人々と手を取り合って共に歩み続ける。
「『いやいや、猪木さん、僕はこういう経験をして、50%くらい他者が入った方がより強いものが仕上がるようですよ』って今は思います」。


高橋慎一 たかはし・しんいち

 東京工芸大卒。フォトグラファー、ライターとして、ジャズやワールドミュージック等の音楽、海外旅行記・芸術文化のドキュメントまで、幅広く活動。2001年7月にキューバ音楽のレコード・レーベル「KAMITALABEL」主催。 そして2015年にドキュメンタリー映画『Cu-Bop』を初監督。製作、撮影と一人三役をこなす。 2018年には『Cu-Bop』に再撮影・再編集を加えた世界公開版『Cu-Bop across the border』が完成。ロックバンド「THE FOOLS」を追った新作ドキュメンタリー映画、『THE FOOLS」を現在、製作中。著書『キューバトリップー“ハバナ・ジャム・セッション”への招待 (私のとっておき)』『ライフスタイル・オブ・キューバーキューバの流儀』など。

https://takahashishinichi.com


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