Special Interview #29

多文化共生への道をゆく

元区議会議員 プラニク・ヨゲンドラ

日本に居住する外国人は、厚生労働省の調査(2021年)によると約227万人。
実際、さまざまな労働現場で、あるいはそれぞれの生活圏で、外国人の姿を見る人は多いだろう。
そして、この国を少しでも良くしていこうとしている外国人もいる。
まさに多様性という言葉を体現するために、
政治の場で、さらに教育の場で活躍を続ける人の話を聞いてみよう。


印象の悪い外国人とは思われたくなかった

東京都江戸川区は、インド系の住民が多いことで知られている。1990年代後半、コンピュータの誤作動が懸念された「2000年問題」を防ぐために、日本の大手企業がIT大国のインドに人材を求めた時期があった。そこで、保証人無しで借りられるUR団地が多く、都心までのアクセスの良い江戸川区の葛西や西葛西に多くのインド人が移り住んだ。2022年1月現在、区内のインド系住民は東京都の統計によると5201人。これは在日インド人の1割以上を占めている。そして、このコミュニティーの中から、一人の男性が公(おおやけ)の舞台に登場した。プラニク・ヨゲンドラさん。通称「よぎ」さんは、19年、江戸川区議選に立候補し、上から5番目の得票数で当選。アジア出身の外国人が日本初の議員となったことで、一躍、話題の人となった。

「もし選挙に落ちたら、そのまま何食わぬ顔をして勤めていた銀行に残るつもりでした。実は立候補したことを銀行に話していなかったんですよ。でも当選のニュースがテレビやネットで大きく出て、頭取から『よぎさん、おめでとう』とか言われちゃいましてね。銀行員は副業ができないのでそのまま辞めることになりました。銀行には迷惑をかけてしまい、申しわけなかったと思います」

まず、流暢で正確な日本語に驚く。話せば話すほど熱を帯び、まっすぐな心根が伝わってくる。もちろんユーモアも忘れない。そんなよぎさんは、勤めていた銀行の副本部長の職を辞し区議の道に進んだ。その決意に至るまでには、どのような経緯があったのだろう。

「私は二度の日本への留学を経て、2001年から日本のIT企業で働き始めました。都内のあちこちに住みながら、江戸川区のUR団地に引っ越してきたのは05年でした。その頃、この地域は外国人が多い地域として、イメージは良くありませんでした。私は印象の悪い外国人だと思われたくなかった。引っ越してすぐその団地で夏祭りがあると聞き、勝手に荷物とかを運ぶ手伝いをしていたら、『よく働くね』と言われ、その1年後には、いつのまにか自治会の役員になっていたんです。

その団地には1500世帯ほどの人たちが住んでいましたが、インド人や中国、韓国の人たちを含めた外国人はそのうちの約2割もいたんですね。私はインド人を始めとして、中国や韓国の人たちからの話を聞くうちに、共通の問題があることがわかってきました」

ゴミの分別ができていない。テレビの音を大音量にしている。外で夜遅くまで大声で話をする──文化や習慣の違いからくる近隣住人とのトラブルを解消するために、よぎさんは外国人の住民たちとコミュニケーションを取りながら、日本で生活するために必要な情報を共有していったという。次第にトラブルは減っていったというが、よぎさん一人の努力では限界を感じる出来事が起きた。11年3月の東日本大震災だ。

「およそ半数の在留インド人が故国に逃げ帰ったと聞いています。なぜ帰ったかというと、正確な情報がなかったからです。何が起きているのか、どこまで被害が及んでいるのかがまったくわからなかった。そんな状況だったので、『放射能のせいでがんになる』『赤ちゃんが早死にする』などと言いながら帰っていく人があとを絶たなかったのです。故国に帰るまではいかなくても、『東日本はもうだめだ』と、西日本に移住するインド人もいましたね。

日本の行政が発する情報やメッセージは、日本語ばかりでまったく多言語化されていませんし、彼らには外国人とコミュニケーションをとろうという意識もない。外国人も日本で働いて税金を納めているのに、外国人のために働こうとしない行政に怒りを覚えました」


人々のニーズに応えるための喜びと苦難

よぎさん自身は、インドに帰ることはまったく考えなかったという。むしろ、引き続きこの日本で生きることを決意し、大震災直後の11年6月に帰化の申請をする。

「被災地でボランティア活動をしたり、区内で募金活動をしたりするようになりました。このような活動をしながらこのまま日本に住もうという思いが強くなり、帰化することにしたわけです。そして、行政にもっと外国人のことを知ってほしい、日本語の教育を進めてほしいと声を上げる人が必要で、だったら自分がそういう人になった方がいいと思うようになりました」

よぎさんが区議を務めたのは19年から21年の2年余り。日本人と外国人の架け橋になると公言して当選を果たしたが、外国人の問題だけでなく、住民のさまざまなニーズに応える必要があることを痛感したという。

「これは選挙活動中のエピソードですが、あるとき街頭演説をしていたら、近くに障がい者の施設がありました。その施設にいる車いすに乗った子供に『僕たちのために何をやってくれるんですか』と聞かれたんです。その言葉を聞いたとき、僕は頭を下げました。『ごめんなさい』と。それまで僕は障がい者のことをまったく考えていませんでした。『これから勉強して考えます』と答えるのが精一杯だったのです」

区議として、外国人のためだけでなく、広く区民のために努力を続けたよぎさんは、2年弱の議員活動での成果はそれなりにあったと語りつつ、限界もあったという。

「私が区民のために最初にしたことは、ALS(筋萎縮性側索硬化症。筋肉を動かす脊髄や脳幹の神経細胞が機能しなくなり、体が動かなくなる病気)の患者さんに全自動式の車いすを支給したことです。それまでは半自動の車いすでしたが、当事者の方に聞くと全自動式の方が人に頼らなくて済み、なにより生き返った感じがするということだったので、テスト期間を経て1年ぐらいかけて導入することができました。全自動の方が100万円以上コスト高になるのですが、ヘルパーやマッサージなどの負担が減るので、関係者を説得できました。車いすの子に言われたあの言葉に少しは応えられたかなと思います。

もちろん私は、日本人と外国人の架け橋になることをアピールしているので、外国人の問題について提言しないと議員である意味がない。区にはインド人だけでなく中国や韓国、ブラジルやネパールなどの人たちがいます。みんなそれぞれ問題を抱えていて、その国の人たち特有の悩みもあります。ですから区が正しい活動をするためには、それぞれの外国人コミュニティーの代表者が集まる会議体をつくり、共生の道を探ろうと提案しました。でもこれはなかなか進みませんでした」


« 声を上げる人が必要で、だったら自分がそうなった方がいいと思うようになりました。»


日本人と外国人の共生に思いを馳せる

よぎさんは21年7月、区議の任期途中で東京都議選に出馬する。2万票余りを獲得したが惜しくも落選。現在はインド料理店を経営しながら、次の出馬のタイミングをはかっているところ、と聞いたところで驚きの発言があった。

「このインタビューが載る頃にはオープンになっていると思うので話しますが、実は22年の4月から茨城にある中高一貫校の校長に赴任することになりました。都議選に落選したとき、やっぱりかなり落ち込みました。自分は何のために政治をやるのかを、一から考え直したときに、教育は大切だと思ったわけです。また、もともと議員をやりながら学校の顧問やアドバイザーをやろうと思っていたこともあり、民間校長の公募に応募したところ、運良く受かったんです。

その学校では、生徒たちに生きるためのヒントを与えて、彼らの自己肯定感を大きくしたいと思います。また、私が校長になるということは多様性を見せるいいチャンスです。海外の学校とつながり、交換留学の道をつくりたいと思っています。それが日本人と外国人の共生につながると思いますから。任期は4年です。そのあとはまた政治の世界に戻るつもりです。でも、これからの4年で何も成し遂げられなかったらその資格はないと思っています。

これはどうでもいい話ですけど、公務員になるから副業ができないんですよ。議員だったら副業をしても問題ないんですけどね。実は息子がいまイギリスに留学していて、学費がとても高いので痛い痛い。でも財産売ってでもやりますよ(笑)」

インタビューは実に3時間にわたり、よぎさんの熱量の高い言葉は尽きることがなかった。区議を経て校長先生となるよぎさんは、日本の教育に新しい風を吹かせることができるのか、楽しみながらその動向を見つめていきたい。


プラニク・ヨゲンドラ

1977年生まれ。インド・ムンバイ近郊のアンバーナス出身。工場で働く父親と裁縫学校を営む母親の間に生まれる。94年プネ大学に入学と共に、同大学の日本語学科にも入る。96年、外務省が実施する優秀者奨学試験で優勝し、日本留学を果たす。01年より日本在住。母親と共同でインド家庭料理店・インド文化センターを経営しつつ、全日本インド人協会の会長も務めている。2022年4月茨城県立土浦第一高校副校長。


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