Special Interview #33

平和のために、私ができること

国境なき医師団 看護師 白川優子

国境なき医師団 — それは白川優子さんにとって、幼い頃からの憧れだった。
大人になってもその夢を諦めず、
豊かで充実した生活をリセットしてでも掴みたかったもの。
そして危険にさらされながら、紛争地に赴き、
医療支援の先に見えてきたものを、
彼女のライフストーリーと共に振り返りたい。


「国境なき医師団」は、ずっと心の中にあった。

「私の頭の中に映像が残っているんです」
白川優子さんはそう語り始めた。国境なき医師団(Médecins Sans Frontières=MSF)に所属する看護師として、シリアやイラク、イエメン、南スーダンなど、おもに紛争地に派遣され看護にあたってきた彼女の原点は、7歳のときに家で見たテレビだったという。
「人道危機の中で生きている人々の現実を描いたようなドキュメンタリーだったと思います。最後のテロップに『協力:国境なき医師団』と出たのを見て、雷を打たれたような感じになったんです」
7歳で「国境なき医師団」という言葉に反応したこと自体驚きだが、それは小さい頃からの本好きが影響したからだと語る。
「私、すごく本を読む子どもだったんですよ。図書館にも通っていました。一緒に行く友達は児童書のコーナーに行くんですけど、私は写真集。アフリカの子供たちが飢餓で泣いているような写真をずっと見ていました。なぜかはわかりませんが、もともと興味があったというか、心が反応していたというか。だから『国境なき医師団』という言葉が焼きついたのだと思います」
国境なき医師団は、1971年にフランスの医師やジャーナリストたちによって発足した非営利の医療および人道支援組織だ。世界各地で起こる紛争や災害、貧困などによって危機に陥っている人々の医療援助を行っている。それまでの功績によりノーベル平和賞を受賞したのが99年。このとき白川さんは26歳。すでに7年のキャリアを積んだ看護師になっていた彼女は、国境なき医師団への思いが再燃したという。
「ノーベル賞のニュースを聞いたそのとき、いまの自分なら国境なき医師団で働ける! と思いました。現実的に考えると、結婚して子供を産む年頃なのに、わざわざ危険な地に赴いて医療支援をするなんてとんでもないことかもしれない。でも、私はそうしたかったんです」
ただ、白川さんが国境なき医師団のメンバーになるまでは、さらに10年ほどの年月を要することになる。必須とされる英語力のなさを痛感した白川さんは、オーストラリアのメルボルンに渡り、看護系の大学に留学する。
「看護系の知識や理論は身についていましたが、あとはそれらを英語に変換することができるかどうか。そこがとにかく大変。落第したら即退学でしたから、もう寝ずに勉強しましたね。絵に描いたような貧乏学生。メルボルンはコーヒーが有名で3ドルぐらいで買えるんですけど、私はインスタントコーヒーの粉をアルミホイルで1杯分包んで、どうしても飲みたいとき、大学のお湯だけはタダだったので、それを飲むのが楽しみだったんです」
そう苦笑する白川さんだが、無事、大学を卒業し、オーストラリアで看護師として働ける資格を得たので、そのまま現地の病院で働くことになった。
「待遇も良かったし、残業もまったくない。まとまった休みを取って旅行にも行ける。海が見えるフラット(住宅)に住み、車を買い、いい家具を揃えたりもしました。こんな夢のような生活なんて他にないと思うぐらい。でも、だんだん虚無感のようなものが私の心を占めるようになったんです」

« 正直になろう。そのために私は頑張ってきたんだから »


恐怖があっても
私の行動は邪魔されない

豊かな生活が白川さんの心を満たさなかったのはなぜだろう。それは、自身が本当にやりたいことをしていないという自覚があったからだ。
「私が求めているのはこんな生活じゃない。やっぱり国境なき医師団なんだ。正直になろう。そのために私は頑張ってきたんだからと」
そこからの白川さんの行動は早かった。2010年の4月、勤務先の病院から引き留められながらもきっぱりと辞め、帰国して即、国境なき医師団に応募。一発合格だったという。
国境なき医師団の人材プールに登録された白川さんは、ほどなくしてオファーがあり、その年の8月、スリランカに派遣される。以降、イエメン、そしてシリアとまさに内戦が勃発している国に派遣されていく。
「怖くないんですか? とよく聞かれますが、恐怖はありません。というか、恐怖が私の行動を邪魔しない、と言った方が正確かもしれないですね。人道支援という共通の思いを持った医師や看護師、ロジスティシャン(設備や物資の調達などを担うスタッフ)などのメンバーが世界中から集まってきますから。そうした人たちが集まると大きな力になるんですね。心が温まってくる。24時間一緒に生活するわけですから、家族みたいな感じになります。そうなるとたとえ紛争地であったとしても、いや、紛争地だからこそ行かなくてはいけないという思いが湧くんです」
だが、そうは言っても紛争地だ。看護師一人の力ではどうにもならない巨大な暴力に打ちのめされる日々もあったと吐露する。
「もう本当にひどい状態で運ばれてくる人がいます。骨が砕けていたり、内臓が飛び出ていたりするような人などがそれこそ絶え間なくやって来ます。救える命はたくさんあるので、もちろんやりがいはあるのですが、何時間もかけて救ったとしても、また違う人が血を流してやって来る。私は何の役にも立っていない。ただ絆創膏を貼っているだけじゃないか。そんなくり返しのなかで、これはもう戦争を止めなきゃ駄目。だからジャーナリストになろうと思いました。フリーのジャーナリストになり、紛争地の決定的な写真を世の中に見せられれば、戦争を止められるのではないかと」
知り合いのメディア関係者に相談し、ジャーナリストへの道を探るが、なかなかいい反応は得られなかったという。
「あなたは看護師なのだから、一人でもいいから命を救い続けた方がいいと言われました。そもそもジャーナリストになっても戦争は止められない。どうしても止めたいのなら政治家になるしかない、とも言われてまた虚しい気持ちになってしまいました」

  • イエメンの瓦礫の前で
  • シリアで足に重傷を負った女性が心を開いた瞬間

« 一人でも多くの人に仲間になってもらいたい。»


負傷した少女の笑顔の
おかげで今の自分がある

心中穏やかでないまま、内戦中のシリアに派遣された白川さんは、そこで爆撃で両足を負傷した17歳の少女と出会う。
「その子の足はぐちゃぐちゃで、治療ができないほどひどい状態でした。皮膚の組織が腐っていくので麻酔をかけて切り取り、感染症が起こらないようにするしかありませんでした。その子は将来を悲観して、塞ぎ込んでしまったんですね。私は彼女の手を握り、覚えたてのアラビア語で話しかけてハグしていましたが、表情が和らぐことはありませんでした。
帰国する日の前日。私はその子に、明日帰らなくちゃいけないけど、あなたのことを忘れたくないから一緒に写真を撮ろうと。その写真を撮ってくれたシリアの看護師の男の子がすごくひょうきんで、変顔とかしてくれたおかげもあり、ついにその子が笑ってくれたんです。『あ、笑った』と、奇跡の写真が撮れました。それが私の新たな転機になりました。ああ、私はこれでいいんだと」
白川さんは、2021年までに10か国、18回の派遣を経験。現在は国境なき医師団・日本事務局の採用担当となっている。かつて国境なき医師団に憧れた白川さんが、今度は逆の立場で人々を導いている。
「みなさんかなりの覚悟を持って説明会に来られますけど、揺らいでいます。それは英語に自信がないとか、紛争地のような特殊な現場で自分の技術は通用するのか、などの悩みが見受けられるからです。技術的にはそうかもしれませんが、マインドとしては柔軟性とかコミュニケーション能力とか、あとはめげない力ですかね(笑)。世界は本当に人道支援を必要としていますから、一人でも多くの人に仲間になってもらいたい。今はこの採用活動に夢中です」
現在でも世界中で紛争は絶えることがない。国境なき医師団の活動はますます重要な役割を果たしていくだろう。白川さんの活動を応援しつつ、世界の平和のために何ができるかを考えていきたい。大上段なことでなくてもいい。白川さんが語ってくれたことに多くのヒントが詰まっているはずだから。



白川優子(しらかわ・ゆうこ)

1973年埼玉県出身。高校3年生のとき看護師になることを決心し、看護専門学校を経て看護師となる。外科・産婦人科を中心として7年間勤務。2003年オーストラリアの大学の看護学部を卒業後、現地の病院の手術室などで勤務。10年より「国境なき医師団」に参加し現在に至る。著書に『紛争地の看護師』(小学館)、『紛争地のポートレート「国境なき医師団」看護師が出会った人々』(集英社)がある。


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