『Interview Archive』は、『NewsLetter』『Spiritual Databook』に掲載されたインタビューです。
内容や役職などはインタビュー当時のものです。予めご理解のうえお楽しみください。

SPECIAL INTERVIEW ARCHIVE #03   1992 Autumn

島田雅彦氏に聞く

作家

B──よく旅をするとうかがいました。

小説の取材のためとか、そういう理由で旅をすることはありません。ただ、あらゆる機会は利用しようと思っていて、紀行文を書かなければならなかったり写真を取られたりという様々な条件があっても、極力旅には出るように努めています。何分、出不精なものですから、放っておけばずっと家にこもって、料理をしたり酒を飲んだり漫画やテレビで漫然と過ごし、退化の極みに陥っていくでしょう。それをわかっているから旅に出るという理由もあります。旅は遊び中心にします。オペラハウスのある都市では、空港からタクシーでオペラハウスに直行して切符を買います。そして滞在の日程を設定してしまうわけですね。夜は当然、バーホッピングです。東京でもやっているようにはしご酒しています。バーで酒を飲むことが、最初のその都市での洗礼になるだろうと思います。文化人類学者が言うところでは、最初のファーストコンタクトは子供か女と行なうと。子供は好奇心のプロフェッショナルですから、見知らぬものに無防備に近づいてくる有り難い存在です。そして女ですね。どこにも娼婦はいます。娼婦を買わなくても、娼婦のような才能を持った人はバーに行けば必ずいる。そしてそういう女が集まる所には普通の男が集まってくる。まあ、バーはその都市で一番重要な社交場だとぼくは考えているから、そこでどういう飲み方をしているか、そこでどういう話をしているか、どういう格好をしているか見れば、もうその都市での立居振舞の方法を身に付けることができる。だから都市を訪れる初めての訪問者にとっては、特にバーが幼稚園のようなものですね。ファーストコンタクトは誰もが緊張します。初対面の人と会うときの緊張、これはどんなに百戦練磨の人でも持っています。大抵の場合は、相手も恐怖を持っているのであり、それを文化とか経験によってはったりをかましているわけです。はったりにははったりで最初はバランスを取るのがよいので、まあ怖るるには当たらないわけです。ただ、その恐怖は初めての都市では何倍にも増幅されますからね。そんなときは自分でアドレナリンを出す方法を持っておくといいと思います。ぼくの場合、オペラを聴く。例えば、パヴァロッティのアリア集を聴く。そうするとぶっとぶわけです。で、自分でも多少の声を出してみる。それは体質と化した趣味の様なものなのでよくやります。そうやってアドレナリンを出す。また飲んでいるうちに アドレナリンが出る。そこから全てが始まると思います。

B──小説を書くうえで、未知の国を旅することは創作活動にどんな関わりを持っていますか?

僕は日本語が自分の母国語だと思いつつも、しかしある距離を持ちたいと思っているんです。僕は、あらゆる喋り言葉は書き言葉から来ていると思っています。口語も文語もないんですね。だから、僕にとっては書くことが常に言葉に直接向かい合うことなんです。また小説など書いているので、特に言葉への態度というのは、他の人に比べるとやや屈折したものがあります。自然に書いたり話したりということができない。そういうハンディキャップを逆にプラスに転化する、それを方法論として持った時に文学へのある態度が決まるんだと考えている。自然な日本語というのは、僕にはないんですね。不自然な感覚、微妙な不信感、そういうものを常に持ち続けていないと日本語が言葉でなくなってしまう。日本語が限りなく自分の感情にべったり貼り付いた道具になってしまう。そうしないためのあらゆる努力は怠ることができないわけです。まあその一番手っ取り早い方法が、日本語から遠ざかり外国語を話すという「旅行」なのです。僕はすごく外国語の学習にルーズなんですけど、ただ外国語を聴いていることがとても好きですね。自分がよく意味を知っている言葉よりも、流暢に喋られている言葉の、どれ一つどの単語をとっても意味がわからない時の方が心が安らぐときがあります。例えば、僕はアラビア語をまったく理解しませんけれども、その話を聞いているときに、ある非常に心地いい音楽を聴いているような気分になる。もっと身近な例で言えば、沖縄に行って、沖縄の人達が喋っている日常会話を聞いているときに、何を言っているのかさっぱりわからないが、リズムとアーティキュレーションがあって、それを音楽として聴いているわけですね。その感覚がとても好きです。そして何日かその都市にいると、多少文法をかじった言葉であれば、全く意味を結ばない音楽だった言葉が、次第に形とか意志とかニュアンスとか帯びてくるんですね。その瞬間がとても好きです。外国語を学習し始める瞬間というのは一度幼児にならなければならない。そういう非常にマゾヒスティックなシチュエーション自体が僕は好きなんですよ。不自由な言葉で現地の人とコミュニケートすると、どうしたってこちらは弱い立場におかれる。向こうの慈悲をあてにする非常に弱い存在になる。まあ、旅行で得られる体験として、そういうマゾヒスティックな感覚というのも、もっとも僕は愛しているんですけどね

B──今まで様々な旅を重ねてこられたと思うのですが・・・・・・

僕にとって最初の外国はロシアです。二十歳の時でした。往々にして、始めて訪れた異国の印象は最後まで引きずりますね。最初にアジアを訪ねた人は、その後の旅の傾向もアジア中心になるだろうし、ものの考え方も、もともとアジアに接近するようなところがあったんだと思います。ヨーロッパに最初に行った人、これはアジアへの旅行がその後おっくうになる。僕はロシアだったんでどっちつかずなんですよ。モスクワに行けば、ここがヨーロッパの東の果てなんだということがよくわかります。もちろんモスクワはロシアの中心ですから、ロシア人の影響力をシベリアから極東まで及ぼしてはいますが、しかしどうしようもなくアジアとヨーロッパが交じり合う。キリスト教とイスラム教が出会う場所というのは他のヨーロッパの中にもありますが、それとまったく違うヨーロッパとアジアのボーダーがロシアにはあるんです。ヨーロッパの中心にいることができない、モスクワに留まっていることができない、そういう異端のキリスト教徒達が、さらに東を目指します。そこで土俗的な、アニミズム的なものと結び付きながら、あるいはイスラム教や仏教やゾロアスター教やその他もろもろのアジアの宗教と結び付きながら、独自の変容をとげていく。タタールのくびき以来、イスラム教の支配の下でよくぞキリスト教精神を保ちえたというところから始まり、ロシア正教の思想を前近代的なものとして排除する社会主義に至るという、これまでの公式のロシアの世界観というものがあったけれども、それとはまったく違う歴史観がいくらでも作りようがあるんですね。ロシアに現われた神秘思想家達は、そういう表向きの歴史観とまったく違う歴史観を作っていましたし、それはある程度の正しさを秘めていた。実際にロシアを旅してそういうものに接したかというと、まあほとんど接していないに等しいけれども、しかし、僕は酒が好きでそれが幸いしたのか、シベリアの酔っ払いには直感的にそういうことがわかっている人がたくさんいることを知ってます。アカデミックな話なんかしません。だけど、あっともらした一言一言の中に、微妙な、ヨーロッパでは決して聞きえないようなニュアンスとか、気分があって、それは僕はやはり僕の意識の中にもすうっと入り込んでくるんです。ある感染力を持っている。

B──それは、島田さんの中にもともとあった感性に触れたということでしょうか?

それはそうです。多分レセプターがないと、向こうが何を言っても受けつけないからね。結局モスクワより東側から中国、日本列島に至るまでの間に通底しているものがあるに違いないと。これを音楽について語ることができる。僕が確実にあると信じている音楽のボーダーがあるんです。それは、北緯30度から40度のどこか、多分35度辺りの、あの辺に一本の音楽的な線を引くことができる。今日僕たちがクラシック音楽として聞いているものは全てヨーロッパの音楽ですね。これは非常に言語中枢的なものだと思うんです。大脳でもって洗練していった音楽の語法で、非常に人工的に作られた形式です。それは、北緯35度より北なんです。南はそういう形式性を作らなかった。むしろその形式から逸脱するものを個人個人が作っていきながらその中でハイブリッドが生まれ、今日に至るパターンをとっていると思う。非常に自由な形式解体的な音楽の歴史がある。構築はしない、がしかし、自由なバリエーションの中で、雑草のように成長してゆく音楽の流れがあります。北緯35度以北の音楽は、音階を形式化します。しかし音階自体に矛盾が含まれているので、12音技法のようなものとして再形式化するという形で発展していく。しかし、35度以南の地域の音楽は、厳密な音階の理論も形式もない。

その地方で独特の語法があり、また別の地域では他の語法があり、それが現在でもくんずほぐれつ影響し合い排除し合いながら、また新しいものを作っている。面白いことに、結果として北の形式的な音楽が辿り着いた音楽と、南が辿り着いた形式ならざる音楽家の境地は対応しています。音楽史と呼ばれているようなものの末端にあるもの、無数の人々の脳味噌を使って辿ってきた洗練に洗練を重ねた形式と、直感的にこういうものがいい、これが自分の肉体に合うというフィーリングだけで作られたものが今日聞いている音楽と対応してるんですね。つまり、同じものを目指しながらも、しかし道筋が違う。その道筋が文化なんだと思うんです。だからアジアやアフリカやそういう南方に旅するものは直感を磨かなければならない。運動神経や神経系を磨かなければならない。人と会ってその音楽を聞いて、そのメンタリティに接して直感的に自分と理解し合えなければならない。情緒的な共感の才能に恵まれていなければならない。一方、北の方へ行く人はある種思索的な人でなければならないでしょう。そこに至った歴史なり、いきさつなりを把握しなければならない。自分の歴史というものも作り、それと対抗させて何が違い何が似通っているか、そういうことを対話のなかから見いださなくてはならない。 僕はロシアと最初に出会ってしまったので、 どっちつかずのところをいつもうろうろしなければならなくなったんです。僕はすごく直感を愛しています。楽しければいいっていうラテン系の、あるいはアフリカのろくでなし達と一緒に酒を飲んで、何となく彼らの間でいい奴になることもできるが、同時に退屈だとも思っている。一方、北方系の理屈をこねるフランス人とか、ある凝り固まった観念も洗練し尽くしていけば偉大なる思想になると思い込んでるドイツ人とか、そういう人達と会っても一応話を合わせることができる。しかし、今一度自分達の末梢神経や筋肉にバランスをとれよと、もっと精神衛生術的なものを心得よというような不満も持つ。そういうようなところで、まさしく東京が位置している北緯35度の人間なんだなと思うことがあります。

B──そういうことも、実際に日本の外に出てみて実感されたのですか?

そうです。生まれたての赤ん坊は、ほうっておいても人間にはなりませんよ。狼に育てられたら四つん這いで歩きますし、独特の筋肉が発達するし、言語中枢が刺激されないので喋ることはできない。つまり、あらゆる知性はその全てを脳味噌と末梢のネットワークの中に持っている。知性を刺激するということは、そのネットワーク自体を刺激するということで、それは全て人間と人間の、あるいは人間と自然の、人間とテクノロジーの、関係の中からしか出てこないんですね。だから、すでにアプリオリに人間には 知性が備わっていて人格も個人個人に備わっているという考え方は否定されなければならない。それはキリスト教的、一神教的世界観とDNA神話が結び付いた異端的な考えです。僕はやはり、多神教的ものの考え方とレトロウィルス的生命科学の叡知とが結び付いたところで生じる、関係性の中から現われてくる知性、知性はあらゆる関係性の中から現われてくる結節点にすぎない、乗換駅にすぎないという説を取りたい。仏教学者は人間と神との関係もそのようにとらえています。ヨーロッパの知性も少なくとも、バロックの時代まではそういう自然の一部としての人間というものの見方もできた。ポリフォニックな、多中心的な世界観を持っていた。生物の中で最も優秀な脳という中枢と、動物的な末梢神経のネットワークを組織するだけでなく、自分の生活圏の外にも拡大しうる内部の探求を個人個人がやっていた時代。可能性としては宇宙にも足を伸ばすことができるポテンシャリティを持った内部の探求を、実は昔の人はそれぞれのレベルで行なっていたんですね。今僕たちが普通に考えていることはやはり求心的なものの考え方で、それは歴史が浅いんです。せいぜい200年。今は、一人一人がものを考える機会が少なくなり、マスが考えるっていう幻想を作るだけなんですね。僕は未来の人間よりも逆にそういうバロックの頃の人間と会って話をできたら面白いだろうなと思うんです。

B──うーん、確かにそうかもしれません。今日は本当に有難うございました。これからの作品をまた楽しみにしています。

1992 Autumn


島田雅彦 Shimada Masahiko

「優しいサヨクのための嬉遊曲」でのデビュー以来、世界の各地を旅してきた島田雅彦氏。今まで訪れた国は? とうっかり聞いてしまったら、「ロシア、グルジア、エストニア、トルコ、ブルガリア、ハンガリー、セルビア、クロアチア、スロベキア、チェコスロバキア、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、フィンランド、アメリカ、メキシコ、カナダ、バハマ、ジャマイカ、中国、ケニア、南アフリカ・・・・・・」と洪水のような答えが帰ってきました。自分の体と精神をさらして勝ち得た生々しい知性を武器に、最近では「予言者の名前」(岩波書店)や「彼岸先生」(福武書店)などで新たな文学の次元へ向かわれているようです。1961年、東京生まれ

※インタビューは当時のものです。

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