『Interview Archive』は、『NewsLetter』『Spiritual Databook』に掲載されたインタビューです。
内容や役職などはインタビュー当時のものです。予めご理解のうえお楽しみください。

SPECIAL INTERVIEW ARCHIVE #05 1993 Summer

池田晶子さんに聞く

文筆家

『哲学書を読んでて楽しいとか、美しい言葉を聞いてうれしいというのは、あれは確認の喜びでしょ。
同じ自分だと思うからじゃないですか。ああまた普遍的なものをみつけちゃったという感じで、大きく言えば、宇宙は自分のことを喜んでるんでしょう?
自分で始めといてね。だから宇宙の始まりは、実は退屈だったんじゃないかなっていう感じが私はありますけど。』

B (ブッククラブ回) ──哲学とは何なのでしょうか?

<哲学的な思考>と、ヨーロッパ人がやってきた<哲学という学問>は、分けて考えた方がいいでしょうね。つまり「自分がいることはどういうことかな」って考えるのは、人間であるかぎり昔からみんなやってきたことなんだけども、とくに近現代では、<哲学>っていえば学問ですからね。やっぱりそこからずれてきちゃってるところがあるんですよね。

一番最初の始まりは、ソクラテス以前の哲学者、あのへんの人達はそれこそ自分ひとりの頭だけで考えていたわけですけど、アリストテレスあたりからいわゆる学問が始まるでしょう。考えていることをみんなで共有しようと思ったときに術語を使わなくちゃならなくなる。そのへんからずれが出てくるんです。つまり自力で考える人とそこに後からくっついていく人と。まあ一人一人に会って話さなくちゃわかりませんけどね。この人どこまでわかってるんだろうっていうのは。本当は、正統的理性的な西洋哲学の根っこにあるものも、神秘的なものへのパッションなんですよ。

私、ヘーゲルっていう哲学者が好きなんですけれど、彼の考え方なんていわゆる神秘主義的認識が根底になければ全く理解できないところがありまして、理性はまあ、人と話をする時に同じ言語を使いましょうみたいなことですから。

B ── 宗教と哲学の違いは何でしょうか?

うーん、一言で言えば信者がいるかどうかの違いかな。だから哲学だって、有り難い対象になりうるっていうことでは宗教であるんです。マルクス教信者とかフッサール教信者とかね。哲学っていうのは、私が考えるかぎりでは疑い尽くすこと以外ではないんですよ。

宗教は……信じることなんだろうなやっぱり。信者はね。教祖はある種の権力欲があったんじゃなかったんですか? ていうのは使命感も含めて良くも悪くもね。何かなければ人は生きられないもの。でもなぜ生きる必要があるのかっていうと、残るでしょ? 疑問が。それが哲学という知性の仕事の孤独なところ。

B ── 精神世界というジャンルについてどう思われますか?

いわゆる<精神世界>というのは、まだ今日的には括弧つきで言われていて、一種の<価値>と思われてるけれども、<精神世界>は<価値>でも何でもないでしょう? だって精神世界でないものなんてあると思います? それを分けちゃうから、あれは特殊だというふうに見られるのよ。やめちゃったら? そういう言い方するの。じゃあそりゃなんなんだっていうことになるけど。まあとっつきやすい形ではあるんだろうけれども、そこで考えることをやめちゃうという怖れはずいぶん出てくるでしょう。

宗教の歴史は、結局言いだしっぺとその追随者達の二種類なんでしょう。言いだした人にとっては、自分で考えに考え詰めて行き着いた結果なんだろうけれども、それを一緒に考えてこなかった人が結果だけを有難くもらっちゃうわけでしょう? それってやっぱり違うことなんですよね。

はっと気がつくってことは、そんなに難しいことじゃないと思うの、私。修業をして妄念から離れたいとかいうのも、やっぱりある種、話が逆なんじゃないっていう気がして。そうやって辿り着いた所っていうのは、本当はぜんぜん救われるような場所じゃなかったりするわけなのに、そこに行けば救われるはずだって信じてそうしているわけでしょう? 悟りというものに喜びの感情っていう<価値>がなぜ出てくるのかってことなの。

やけっぱちになるのはわかるわよ。<価値>なんかないんですよ。永遠に生きなくちゃいけないなんて、それこそ考えるとぞっとするんだけど。私、絶望的な気持ちになるわよ。まったくなぜよと思う。みんな、なんで救われると思ってるんだろう。神秘学とか人智学とかああいう人が考えている思考の筋道っていうのは、私もよくわかるんですよ。でも結局それで救われるっていうことはないんであって、最後のところでちょっとしたずるをしなければ<価値>は絶対出てこないはずなんですよ。物質対精神なんていう図式を信じられるぐらいなら、もちろん救われる余地はありますよ。でも精神しかないと思ったら救われないんですよ、これ。わかるかな。

なぜって外側がないんだもの。外側があるからそれにすがっていけるわけで、全部自分だと思ったらどうするの? なんか自分で自分の髪つかんで飛び上がろうとするようなものでしょう。それもやっぱり疑うっていうのが哲学の仕事ですから、そうすると哲学者自身は永遠に救われないことになるわけで。

B ── 「わかる」とはどういうことなのでしょうか?

私は、この国に禅があるというのは、たいしたものだと思っていて、実に簡潔に全てがわかる。ある種体質や性格もあると思うのよ。あんまり歴史とか伝統とか地域とか、信じないんだけど、やっぱり禅的な、ものをぱっぱっとわかっちゃうっていうのは、私もこの国の伝統の中にあったのかなって思いますよ。非常に得をしたと思ってます。

哲学書を読んでて楽しいとか、美しい言葉を聞いてうれしいというのは、あれは確認の喜びでしょ。同じ自分だと思うからじゃないですか。ああまた普遍的なものをみつけちゃったという感じで、大きく言えば、宇宙は自分のことを喜んでるんでしょう? 自分で始めといてね。だから宇宙の始まりは、実は退屈だったんじゃないかなっていう感じが私はありますけど。自分が自分であるという自己充溢的な充満に耐えきれなくなって、あるいは退屈でたまらないと思って、ふっとずれたかなんか、それで宇宙が始まって、言葉が出ていって、で、それを回収する楽しみでしょ。

合致の感覚って言うのは確かにありますね。いわゆる<真理の言葉>というのにはね。ぴったり嵌まったなっていうね。言うところの<小我>と<大我>の合致でしょう。でも、どっちもやっぱり<私>でしょ。宇宙はどこまでも私なんですよ。ただ、あなたの宇宙と私の宇宙はやはり違うんですよね。「天上天下唯我独尊」ていうでしょ。全くそのとおりなんですが、それは釈迦の宇宙なんですよ。私の宇宙じゃないんですよ。いわゆる神秘主義っていうのは、最後は一つでみんなそこに向かっていって一緒になるっていうでしょ。それは、違うと思うんですよね。

B ── 言葉では表現できないようなものを表現したり、受け取ったりすることについてどうお考えですか?

やっぱり普遍的なものを確信していなければ不可能でしょう。つまり言語以前のものがあるということを知っていなければ、字面に捕われるだけでしょう? 「眼光紙背に徹する」っていう言い方があるじゃないですか。たとえば哲学書を読むんでも、私は術語、用語なんていうのは、調べもしないですっとばして読むんですよ。それはそこの意味の流れで読むんですよね。大づかみにして。でそこからまた帰ってきて、それぞれの言葉がどう定義されてるかっていう、そういう垂直な往復運動ですよね。

そうでなければ哲学書なんておよそ読めないはずなんですけれども。ちょっと話してみれば、ああこの人は言えばわかるっていうのはわかりますよ。ちょっと押してあげるとぱっと開くってことがありますから。それは、見極められますよ。変な言い方だけど、その人の時期とかね。その人の言葉がどのへんの意味の深みから出てるのかっていうのは、まあ見ながらですね。

たとえば宇宙っていう言葉を使うにしても、その人の辞書の中で宇宙っていう言葉がどういう意味であるかっていうのは、ちょっと話すとわかるでしょう? じゃあ安心して、その宇宙っていう言葉を使おうとかね。それこそ理屈で考えてない人は、直観的にそういうことを知っていたりしますよ。理屈を経由するってことは、間違いの素ですよ。元に戻るに決まってるんだから。なかなかでもね、学校の中にいる人は、頭ガチガチ。本当に何のために何やってるのかわかんないじゃないっていう感じの人多いから。だって哲学の本読むために哲学やってもしょうがないと思わない?

B ── どうして人間は、何か別のものに変身したいと思ってしまうのでしょう?

だからね、その別のものはやっぱり<自分>でしょう。問題はそれなんですよ。だから「いかにして自分でなくなるか」の<自分>の意味なんですよ。<自分>でないことができるのかどうかとかね。かつてできたのかとかね、おかしな文法が出てくるわけ、そこに。<自分>でないものは、どこまでも<自分>でないし、<自分>であるものは、どこまでも<自分>なんですよ。<変身>というのは論理的に不可能ですね。不可能だからこそ、それを欲望するんでしょう。

最近は、ほろほろと意味が崩れていってしまうから、わかんないの。つまり、生きていかなくちゃとか、生きていくべきだとかっていうものがあるんならね、なにがしか。意味があるようにさ、でっち上げながらも、生きていくわけじゃない。でもなんで生きるのかわからなくなったら、意味は崩れていきますね。何も無いことが可能かどうかなんてやっぱり考えるじゃないですか。そうするとやっぱり何かあるんですね。どうしても何かあるんですよ。あるものをどうしてくれようかっていう、対処の仕方で途方にくれることはありますよ。

私が訳のわかんないことを文章にして世の中に出したりしてるのは、私と同じ絶望に人々を突き落としたいんですよ。私一人がこんな絶望しててさ。破滅型にもかかわらず絶対無はありえないという、この絶対矛盾でもう。壮大な自殺を企てたいと思うんですが、神様の顔が見えませんから神様を殺せないんですよ。人類の自殺者の半分は、多分こういうところに落ち込んだ人ですよ。でも、彼らが死ねたかどうかも私は知らない。神様のばかやろうですよ。義憤を覚えますよ。なぜ我々がこのようであるのかってさ。わけのわかんないところにほおりこまれちゃって。実に耐えがたい矛盾、絶対矛盾のはざまに入り込んで体がねじくれるみたいな感じがありますよね。

事実、何にも意味がないというのに人は耐えきれませんよ。私もひどいときには悶絶しますもの。宇宙がわかったとか、宇宙の意味がわかったという、その<わかる>というのは何なのか。醒めても醒めてもまだまだ醒められるという感じがやっぱりあって、やっぱりわかって救われるっていうことはないんですね。

だから私、もうやめちゃいました、考えるの。もう神様のことを考えるのはやめたの。表現の方に移っているのよ、だから。以前は、考えに考えていって「どうなってるの、いったい」って、それこそ言葉の根っこの方に向かっていって、言葉の根っこまで行きついちゃったんですよ。で逆に今度、言葉を出すほうになったの。今、岩波で西洋哲学史の連載をやってるんですけど、『よむ』っていう雑誌の中で、<口伝>って書いてオラクルってふったんですよ。本当は神託の意味を持たせてるんですけど。この意味、まさか自分で言うわけにいかないから。認識から帰ってきて今、表現の側に行ってるんですよ。

B ── それは、普遍的なものが池田さんを通して表現されるということですか?

何だろうね。私と言えば私だし。知らないわ。だって言葉を作ったのは私ではないし。昔から人々は、言霊だとか言ってるじゃないですか。自分で気がつかないでそういうことをやってる人って、いるんですよ。気づいている人もいるんですけどね。詩人ていうのは、だいたいそうでしょう? 書いてるのは自分でない。まさに彼らじゃないんですよ、書いてるのは。それを明らかに自覚してるかどうかっていうのはまた別の話でね。感覚としては、そうやっぱり<意味>がくるんですね。わかんないんですよ、そんなこと誰にも。私が知りたいってところなのに。

子どもの頃から、何か普遍的なものに対する指向性ってずうっとあって、多分それはものぐさなことと関係してるんだと思うんだけど、何か一つ押さえれば全てがわかるもの、そういうものが欲しくてしょうがなかったの。禅なんかはまさにそうでしょ。何かをするっていうのは個別で特殊じゃないですか。だから何にもしたくないの本当は。普遍的でありたいの。だからこの自分がある一つの肉体を持っていたなんてことが悔しくてしょうがなかったりするの。生まれたから、死ぬまで生きている、それだけ。それ以上の真理はないでしょう?

B ── どうも、ありがとうございました。


池田晶子 / 文筆家

1960年東京生まれ。慶応義塾大学 文学部哲学科卒業。
著書に『帰ってきたソクラテス』『オン! 埴谷雄高との形而上対話』『悪妻に訊け』『さよなら ソクラテス』『メタフィジカル・パンチ』『14歳からの哲学』『事象そのものへ!』『メタフィジカ!』など他多数。

※インタビューは当時のものです。

Official Site
(池田晶子記念)わたくし、つまり Nobody賞
https://www.nobody.or.jp

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絶望を生きる哲学
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池田晶子、NP法人わたくし、つまりNobody 編
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1100円(税込)

池田晶子の遺志と業績を記念する「わたくし、つまりNobody賞」。その運営団体であり、著作権承継者であるNPO法人によって、没後10年を機に本書は編纂された。池田晶子が考えぬき、表現し、そうしてのこされた数々の文章。厳選された切り口と鮮やかな言葉が一冊の本となり、再び次代へと繋がれていく。

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