『Interview Archive』は、『NewsLetter』『Spiritual Databook』に掲載されたインタビューです。
内容や役職などは1999年のものです。予めご理解のうえお楽しみください。

SPECIAL INTERVIEW ARCHIVE #13 1999

天才に近い処

岡本敏子 / 岡本太郎のパートナー、養女

戦後のあの頃は日本中が沸きかえっていた時代だったの。
学校の教科書に墨を塗って授業してたくらいだから、混沌として、本当に価値観などがひっくり返った時代だったよ。
今もみんなションボリ途方にくれているけれど、あの頃はもっとみんな威勢よく途方にくれていたのよ。
そういう中で太郎さんはホントに颯爽としてましたからね。

自ら究極の真理に達したと言葉を発する人がいる。
そのような存在の強烈な人のそばに、実は大きくうねるエネルギーを調節したり、
フィルターとなる役割を持つ人が自然に存在する。
天才、岡本太郎。
その強烈な存在のすぐ側にいる人は何を見て、また、その存在に何を与えていたのだろうか?
創造の渦の中心では一体なにが起きていたのか?
そして人間、岡本太郎はどんな日常があったのか?

B (ブッククラブ回) ─ まず岡本太郎氏と敏子さんが出会ったきっかけについて聞かせてください。

 ホントに偶然だったんです。ファンでしたね。あのころ岡本太郎さんと言えばもう時代のシンボルで男の子でも女の子でも若い人はみんな憧れていましたからね。シャープだし、威勢がいいし、今までの日本人には全然いなかった人間像でしょ。あちこちで芸術研究会とか講演会とか開かれていて人気者でした。戦後のあの頃は日本中が沸きかえっていた時代だったの。学校の教科書に墨を塗って授業してたくらいだから、混沌として、本当に価値観などがひっくり返った時代だったよ。今もみんなションボリ途方にくれているけれど、あの頃はもっとみんな威勢よく途方にくれていたのよ。そういう中で太郎さんはホントに颯爽としてましたからね。講演会に行っても今までの日本人が言わないような論理的で情熱的で鋭い論法でしょ。これは凄いと思っていたら私たちの仲間の一人が太郎さんの家に行くと言うので、みんなでついていったのよ。その上野毛の家に花田清輝さんがいらっしゃったのだけれども、そのころ太郎さんと花田清輝さんは「夜の会」というのを始めていて、「モナミ」というフランク・ロイド・ライトが建てたという、個人住宅をレストランにした場所で公開討論会をひらいたのよ。会費は紅茶一杯、埴谷雄高氏や野間宏氏、椎名麟三氏、安部公房氏なんて人たちが順番にレクチャーされるのよ。そこで受付をやったり皆さんに御通知だしたり整理したりするのにスタッフが必要で私たちがやったの。誰でもよかったのよ(笑)。その頃はまだ上野毛に住んでいたのだけれども、ここの家(岡本太郎記念館)は坂倉準三さんに設計してもらって1954年からここで活動を始めたんです。始めから芸術運動をやるつもりで「現代芸術研究所」という名前をつけて、建築、音楽、映画、舞踊などの色々なジャンルの人を集めて、共同製作をしたかったの。そこでも色々な人に講演をやってもらって、それは『現代芸術講座』(河出書房 現在は絶版)という4冊の本になって出版されています。太郎さんは苦手なジャンルがなく、例えば「夜の会」なんて他の人はすべて文学者だし、最近亡くなった政治学者の丸山眞男さんなんかと「未来の会」というのもやっていて、ここでも他の人はみんな学者で、絵描きは太郎さん一人なんだけれど、この中で一番よく喋るのは太郎さんでしたね。留学先のパリでも心理学者や哲学者、社会学者、色んなジャンルの人と親密な討論をやってたのね。日本によくある画家は画家、文学者は文学者、それぞれ村社会で他のジャンルにはいっさい関知しないというのではない、もっと精神的なつながりの中で渦巻きを起したい人でしたね。

B ─ パリから帰られたあと、すぐに戦争のため徴兵されたようですが、これによって太郎氏の中で大きな変化などはあったのですか?

 あったんでしょうかねえ、御当人は昔のことをは全然喋らないし、あまり影響は無かったみたい。「冷凍されていたようだった」とは言ってましたけれど。いまでも当時戦争で一緒だった方たちが懐かしがってここに遊びに来たりするんですよ。「岡本太郎さんはよく生きて帰ってこれたよねえ、あの戦争中に勝てないと言ってたんだから、あんな兵隊らしくない兵隊は他にはいないよ」って。当時の司令官の肖像画を命令されて描いている時の写真が残っているのですけれど、実際の将校さんの姿より太郎さんが書いている絵のほうが人品骨柄というか、ずっと上等なのがおかしいのよね。その頃の話では四番目主義というのが、いかにも岡本太郎らしくて象徴的ですよ。上官が夜中に兵隊たちをずらーっと並べて順番に殴っていくんですって。よく観察していると一人目二人目の時はまだ殴る方も本調子ではなく四番目になるとジャストミートしだして一番強烈なのね。五人目、六人目になると疲れて飽きてくるらしくいい加減になってしまう。太郎さんはあえて四番目を志願することに決めたの。意味なんてないのは解っているのだけれど、逃げていると自分がダメになる。「最悪にかける」といって名乗りあげるらしいの。順番が来て前に出る時、ひざがガクガクしてつんのめりそうになる、というのが人間的よね。頭では決意していても体は正直で怖い。でも前に出る。

B ─そういった、ガッツみたいなものはどこで培われたのですか?

 そういう人なんですよ、天性というか。子どもの時、小学校から登校拒否児で一年生で四回学校を変えているのだけれど理由が「先生がけしからん」というんです。先生が威張ってた時代でしょ。「お前たちは親不孝だろ!出てきて謝れ!」といわれ生徒がゾロゾロ出て行って謝るんですって。太郎さんは「親不孝なら親に謝るのなら解るが先生にあやまるのは絶対いやだ」といって謝らなかったらしいのよね。こういった性格なのは本人も解っていて、こういう自分を持ったままでどのように世の中を生きていけばいいのかということを、パリに留学中徹底的につきつめて帰ってきたんですね。子どもの時は本能的にやっていたのよ。どうしても譲れないものがあるというのは解っているのだけど、それが何なのかはまだ子どもの時は解らない。みんなにいじめられても「とにかく絶対にいやだ!」と抵抗するらしいの。

B ─現代の子どもは一見もっと自由で、思いたいように思ってもいいはずですが、もっと本当の意味でのアイディンティティが無いようですね。

 そうなのよ。ここにも登校拒否児がよく来るのよ。不登校児の組織が出している「不登校新聞」というのがあってね、太郎さんも登校拒否児だったの知っているからそこの編集長が中学生ぐらいの子ども達を連れてね。その子達が言うには、(小声で)「学校には行きたくないんだけれど、別に批判している訳ではないし、学校が悪いと言っているんではないし……」なんて言ってんのよね。それで私、怒ったんです「何甘ったれているのよ。学校に行かないってこと自体、体制を批判しているんだから何故自分が行かないのか、行けないのか、何が悪いのかちゃんと自分で言わなきゃダメじゃない」と言ったら、そんなこと言われたこと無いって言うのよね。大人は「君たちが悪いんじゃない、君たちの気持ちはよく解るよ」なんて撫でるようなことばっかりいっているの。だから私みたいにポンポンと言うとびっくりしちゃって何となく嬉しくなっちゃうようで、ここに来ると元気になるようよ。「自分はこうなんだ」ってことをちゃんと主張しなきゃね。逃げてちゃ駄目。ぶつからないで楽だけしようなんて、そんなのズルイわよねえ (笑) 。情報過多で選択肢が多くて「こうなんだけれどもこうも考えられるし」なんて言っても人間なんて何かひとつしか選べないじゃない。他のものは選ばないんだから、なぜ選ばないという理由が自分の中にあるわけじゃない。ハッキリそれを言えないとしても「こうなんだ」ってことを自分で納得出来てなかったらしょうがないでしょう。大人の方も変に撫でるようなことを言って逃げてばっかりいないで子どもはちゃんと解っているし、そういうことをされると腹が立つものよ。みんなそうやって何もかも避けて通るのばっかりじゃ空しい。女の人も女の人で、女性差別をされて、被害者みたいなことばっかり言っているんだから。もっとガンッガンってぶつかったらいいんですよ。

B ─岡本太郎氏の世界が色々な形で残っていますが、これだけ強烈な生き方をしていた人と一緒に歩まれることを選んだ岡本敏子さんという方に興味を抱きます。

 だってあなたあんな人を見ていたら50年なんて瞬間よ。面白くて面白くてハラハラドキドキでいつの間にか50年経っちゃいました。選んだっていうつもりはないけれど、ほっとけないものね。あんな凄い人はいませんよ。瞬間、瞬間ホントに爆発しているんだから。色んな想念や哲学的な面白いことが無条件にパーッと出てくるんです。無限に。それは言いっぱなしでその瞬間に出るだけなのね。それを拾い集めて収穫しようなんてことをしない人なんです。私が一所懸命メモして取り集めればちゃんと本になるでしょ? (笑) 。私自身は始めの頃、友人たちに怒られましたよ。岡本太郎に巻き込まれ過ぎって。何しろ時間がなくてお付き合いも断ち切れてしまうし、自分のことをやる暇なんて全然ありませんでしたよ。お化粧もしたことないし、髪も切りっぱなし、オシャレも何ももう自分のことを何かしましょうなんて気は全然起きませんでしたね。とにかく毎日時間が無いんですもの。あの人のスケジュールは大仕事が同時進行していて、打ち合わせもあるし、製作、取材、展覧会、現場、工場だ、本を書くだ、講演だって、これらのことが同時進行で幾つも重なっているんだから。よくもまあこんなにやっていたなってあとから振り返ると驚きますね。それを整理したり、スケジュールを調整したりするのが私の役目でした。だから今ぐらいのことは何でもないのよ。まだまだ全然平気よ。出版社なども自分たちの依頼した仕事が上がると「少しはお休みになられたらいかがですか」って言ってくるんです。私も冗談で「あんな凄い精密機械遊ばしていたらもったいないでしょう」って。

B ─今では簡単なようにおっしゃられていますが、50年という年月の中には色々なことがあったと思います。

 そうねえ。でもいやな事はひとつもありませんでしたよ。亡くなってから『岡本太郎に乾杯』っていう本を書いたんです。新潮社の担当の方が、あんまり私が岡本太郎さん素敵だ、いい、素晴らしいとばっかり書いていたら読む人が「えー、そんなことは無いでしょう」って思いますよ、ここはどうかと思うとか、ここは変だって思ったこと一つくらい無いんですか?っていうんですよ。それで私が「全然ないのよ。どうする?」っていったら困っちゃって「じゃあしょうがありませんね」って (笑) 。それで向こうも諦めたんだけれども。

B ─お話をうかがっていますと、ソウルメイトといわれる、魂の友だちというか、何度も何度も転生しても必ず関係するという話を思い出します。もしかして双子ではないかというような。お二人は同じアイデンティティが、違う形で現れているように感じます。

 まったく違う形ですよ。太郎さんはロマンチストだし、私はこのまんまなの。無いものに憧れたり、挑んでいこうとかそういったことが全然ないの。コンプレックスみたいなのも。よく太郎さんにも笑われていましたよ「お前さんはロマンティシズムってもんが無いんだからな」って。このまんまでやれるだけのことをやる。それしかないの。若い時からほんとにそうなのよ。

 太郎さんはまったく違う。すごい主張するし、シャープなんだけれども、物凄く繊細な部分を持っていてデリカシーがあって解っちゃう人なんですよ。そりゃ情みたいなものは全て削ぎ落としてしまうけれども、解らずにやってるんじゃないんですよ。嘆くことは、激しく嘆くけれどね。それで最後は、パーキンソン病にかかってしまって頭はしっかりしているのに体が動かなくなってきてね、可哀想だったんだけれど、その前までは、もう挑戦的に盛大に嘆いていたのよ。最後の方はだんだん声が小さくなっちゃってね。もう死んじゃったからこれから大いに嘆きましょうって私が代わりにやっているの。盛大に。明朗に。今でも岡本太郎さんがしたいようにやっているの。私がやっているとは思えないの。だって死んでないんですもの。あれだけの精神がね、フッと無くなってしまうなんてあり得ないじゃない。今だって不思議現象が起こってすごいのよ。ものごとが彼のやりたいように流れているの。太郎巫女なの (笑)。 私が何かをやっていますという感じは全然ない。私をストレートに通過して渡している感じ。最近『岡本太郎 痛快語録』(小学館 現在は絶版)という本を出しましたけれど、あの人の何気ない一言がホントに面白いのよ。それをみんなにお伝えしたいし。あの人の言葉には必ず身ぶりが伴うんですよ。肉体を通して、思想がひらめき出るのね。只の言葉ではないんですよ。

B ─岡本太郎氏の創造の源は、どのような観点から生まれたものだったのですか?

 太郎さんはニーチェとか実存主義とかの中で育って来ていますけれど、宗教観というのではなく自分の中に燃えているもの、神聖なものはどうしても打ち消すことが出来ない。それを信じてたのね。なんというか宇宙の神秘と直結するっていう感覚があるのね。あの人の芸術っていうのは生きるということなのよ。激しく燃焼して生きるということ。でもただそう言っているだけだと哲学になってしまうでしょう。あの人はやっぱり「創る人」なのよ。あの人がいう芸術という言葉を「宗教」にしてもいいいし「愛」としてもいいだろうし、もっと広い言葉にしたほうがずっと解りやすいんだけれどね。CMの「芸術は爆発だ!」は有名ですが、太郎さんはテレビにもよく出ていたでしょう。これは良い面と悪い面があり、私自身も「なんであんなものに出すんだ」って随分責められたの。真面目な芸術青年とか評論家などには評判わるかったのですけれど。変にまつりあげられてお厨子の中に入れとくよりはいいでしょ。それによって若いテレビ世代にも生身のあのテンションのエッセンスが伝わったわけだし (笑) 。今だに誰が教えたわけでもないのに、幼稚園とか小学校の子どもたちが「芸術は爆発だ!」って目をむいてキャッキャ遊んでいるみたいなの。不思議よね。その子たちの母親もそんな映像を見てるはずはないのに、何か伝わるものがあるのかしら。あとやっぱり万博のあの「太陽の塔」こそ太郎さんよね。当時、進歩だ、テクノロジーだ、チャカチャカした中でアンチとしてあれを打ち出した。そこに意味があったのよ。NOと言っているのよ。対立させることで生き始めるのよ。あらゆる悪口を周りから言われたけれど全然気にしないし。進歩だ、調和だ、テクノロジーなんか腹の底からバカバカしいと思っていて、それにNOと突き付けることが大事なのよ。「結構な塔でございますね」なんて言われたらハラが立ったでしょうね。どんどんぶつかりあってこそ意味があるのよ。

B ─岡本敏子さんの今後について教えていただけますか?

 わからないわ。「今、この時」だけなんですもの。今やることだけ。それが次から次へとやってくるものね。そのままであることよ。そうじゃない? 私はそうです。太郎さんに鍛えられたせいもあると思うんですけれど「おまえさんはそのままでいいんだよ!考えたってしょうがないだろ、頭がいいわけでもないし、センスがいいってわけでもないけど本当のことしか言わないからいいよ」っていつも言ってました。ごまかしたり、相手がこう言って欲しいんじゃないかとかそういった対応が出来ないの。解らないの。ガッと聞かれればこうバッとそれにそのまま打ち返すだけなの。それでずっとやってきた。ここまで来たんだから変わりようもないし。これで行くんでしょう。

本日はありがとうございました。


岡本 敏子(okamoto toshiko)
1926年 千葉県生まれ。
東京女子大学文理学部卒業後、出版社勤務を経て、岡本太郎氏の秘書となる。生涯にわたって、岡本太郎氏を支え続けた。太郎氏が急逝してからは、未完作品全ての製作に監修として関わった。2005年他界。

※インタビューは当時のものです。


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