『Interview Archive』は、
『NewsLetter』に掲載されたインタビューです。

今回のインタビューは、2004年に行われたものです。
予めご理解のうえお楽しみください。

SPECIAL INTERVIEW ARCHIVE #19

〈痛み〉は変容の扉

森岡正博 / 哲学者

無痛文明を解体していく仕方にも、
その道がどこに開いていて、
どういう道筋を通り、
どこへ到達するのか、
という地図がまったくない状態でなくてはならない、
というのが論理的な帰結です。

苦痛を感じたくない。
誰の中にも潜むこの欲望は、人々を眠りの中に誘い込み、
やがて本質的な「生命の喜び」を殺してゆく。
社会のあらゆるところに用意された無痛化装置。
私達は、この文明と対峙しながら、どう生きてゆけばよいのか。
それは、ひとりひとりに託された問いだ。
<無痛文明>という視点から現代社会に警鐘を鳴らす、
森岡正博氏にお話を伺った。


 ブッククラブ回──まず最初に「無痛文明論」を誰に向けて書いたのかをお聞きしたいのですが。

率直に言うと、自分のために書いたんです。今まで私が書いた本は、読者を想定することによって、文体も決めて、わかりやすいように心掛けて書いてきたんです。ところがだんだん、自分自身とはいったい何なのか、という問題が大きくなってくる。自分が生き続けてゆくためにも書かなくちゃならないものがある、というところまで思い詰めてしまった。それで最初に100枚くらい書いたものを、面白いからというので連載させてくれる雑誌があった。それが出発点です。本にまとめる時に、わかりやすいようにいろいろ整理をして、読みやすくしましたが、基本的には自分のために書きました。書き終わった今わかるのは、この『無痛文明論』は、自分のために徹底的に書くことによって、私と似た問いにはまっている人達、あるいは同じような体験したり、同じような文化的、時代的な波の中で育ってきた人々に届く結果になったのかなという気がしています。

実際に読まれた方の反響というのはいかがですか
?

今回の本は賛否両論ですね。否のほうから言うと、一番多いのは文体に対する嫌悪です。こういう文章は、しつこくて読みたくないっていう。あと文明とか社会の病理を描くにしては、社会や経済、歴史に対する掘り下げが足らないとか、そういう批判は受けています。それは当たっているんじゃないかと思う。賛成してくれた方は、私と同世代の40代、あとは意外なことに20代ですね。自分と社会の関係を内側から考えて開いてゆこうという人達は、こういう文明の問題を内面世界、あるいは生き方の問題から考える。自分と世界、善と悪とかをぶった切って二元論で考えてもどうしようもないし、社会にある事はブーメランのように自分に戻っていくということを多分、我々の世代は、深くしみじみと感じてきたと思います。

また、20代の読者が意外に多くて、こんなに高い本を若い人が買ってくれるとは思わなかったんです。けれども、豊かさの中で生きる意味が失われているという世界を具体的に生き始めてしまっている人がいる、ということのようです。この本に描かれたことは「リアルである」と捉えてくれている若い人達がいます。おそらく著者としての私が、若い頃は、そういうところに踏み込み始めていた時代だと思うんだけれども、現在は、無痛化しているのがリアリティである、という人達が本当に出現し始めている。彼らにとって、痛みや苦しみの問題と、快楽の問題、そして喜びの問題、絶望の問題というのは、ある意味我々が知らない、わからないくらいのリアリティなのではないか、という感じがしますね。

 「無痛文明」「無痛化装置」という言葉は、現在の社会や関係性を非常によく表していると感じました。もともと重いものから目を逸らさずに生きている人達は、この本を読んで自然に共感するのではないかと思います。ただ、無痛文明にどっぷり入ってしまった人は、本を手にとっても一行目でやめちゃうんじゃないかな、という気がしないでもないんです。たとえば、このインタビューを読んだ人が、「あれっ? 自分はその無痛文明の中にいるのかも」と気づくヒントになる、具体的な兆候みたいなものはあるでしょうか?

無痛化の罠にはまっているんじゃないかというのは、何かの反復の状態に陥ってないかを考えてみるのが、一つのきっかけになると思います。その特徴は、反復していても、結局、心の空虚が埋まらないということです。たとえば、買い物依存症とかあるでしょ。あれは心理学ではアディクション(嗜癖)の一種として捉えられていますけど、無痛文明論から見ても非常に面白い状態なんです。なにか心にポカッと穴が空いた状態を埋めるために買い物をして、それで満たされる気がするんだけども、後でやっぱり何も変わってないことに気がつく。それで買い物してもダメだなと思って止めるんです。でも止めても、心の空虚を埋めることがないので、また買い物をしてしまう。こういう状況に陥っている人というのは、今の社会では多いように思うんです。たとえば、恋愛とか不倫とかに惹かれている人も同じです。それは鬱屈した閉塞感があるからで、そうした事によって抜け出せるんじゃないかと考えるんです。
もう一つは、自分の内側から発する必然性によって求めるのではなくて、社会が用意しているものに乗っかっているだけという点です。たとえばセラピーにはまっている人もいますよね。これも同じで「心の空虚がある時はこれを消費すればいい」という風に社会の側が選択肢を様々に出してくる。その反復を止めるために、様々な心の手当てをしたり、カウンセラーのところに行ったとしても、それ自体が無痛化装置になっている。無痛文明に乗るから空虚になっているのに、それを解決するために、さらに無痛文明に乗っかろうとする。それが、もう一つの特徴だと思います。
無痛化しているのは何故かというと、我々がこの社会の中で痛みや苦しみから、どこまでも逃れようとしているからですね。気持ちのいいものは、とりあえず手に入れようとし、手に入れたらそれをなるべく逃がさないようにする形で動き始めるところに、根本的な原因がある。ところが、そういう生き方をすることによって、苦しみや辛さに直面することから生じる自己変容の喜びのようなものを、我々がどんどん失ってゆくということがある。だから、我々の心が大きな空虚に襲われているのではと思います。そして反復を繰り返すだけの、どうしようもない袋小路に陥っている。どこにも出口はない。反復を無限に続ける人達がどんどん増えて行って、社会全体がそれに満たされてゆくのではないか、というのが私の現代社会批判です。かいつまんで話せば、そういうことです。

 自分の闇の奥へ奥へと入っていけば、自分の意図を超えたところで何かが変わるかもしれない。それはある意味、自分のコントロールを手放し、自己を解体する行為であるわけですが、そのためには壮絶な勇気が必要です。その選択ができるのは、その人の「存在の力」のような気がします。でも、ほとんどの人がそこまで行き着くことを怖れて、それ以前の段階で、逃げ道を探したり、すりかえをしたりしてしまう。それは、絶望する力がないということかな、とも思います。

なるほど。絶望について言うと、中途半端な絶望というのはたくさんある。たとえば、「自分を変えたいけれど、ああ 自分はやっぱりダメなんだ」とか、「すぐ流されちゃうなぁ」いう絶望。これは絶望という程じゃない気がする(笑)。じゃあ本気の絶望というのはあるかというと、それはさっきおっしゃったように、かなりカのいることだと思うんです。本気で絶望に入った時、自分と世界が壊れた後に、実は絶望ではないものがやってくる可能性があるわけですね。そういうものに開いていく強さを人間は持っている、と私は思っています。だから本当の絶望というのはないのではないか、という気がしています。ただ実際に、出口がない状態で命を絶ってしまう人達がいるのも確かなので、きちんと考えようとすると、絶望の問題はちょっと難しい。
もう一つ言いたいのは、「自分は弱い」という弱さの問題。私はこの本で、無痛化してゆく社会と無痛化してゆく自分自身と闘わないといけないんじゃないかと主張しています。けれども、「それは強い人にはできるけど、弱い人には無理なんだ」、「弱い人は心地良いものに流されるし、苦しんだり痛いのは嫌だし、多くの人は弱いんだから、仕方ないじゃないか」とよく言われます。私はその言い方もすごく疑っています。というのは「自分は弱いからできません」と自分を守ってゆく力は、すごく強い気がするんですよ。その人は弱いんじゃなくて、実は力の強さを自己防衛に向けているだけではないのか、というのが私の見方です。

 膨大な力を使っているわけですよね、そのために。

だと思います。ですから弱い人と強い人がいるというのも、それほど正しい見方ではないと思う。多くの人は、けっこう大きな潜在的な力を持ってるはずです。。生きる強さはみんな秘めているんだけれども、無痛文明の中では、その力をまさに無痛化に乗っかるために使っているのではないだろうか。自分が無痛化してゆくことに使うというカの使い方は、あなた自身の人生にとって本当にいいのだろうか、ということを考えてほしいと思います。

 そうやって無痛化していったら、いつまでも安楽にいられるのかというと、本当はやっぱりどこかに澱みたいなものが溜まっていって、潜伏した苦しみを感じて生きることになるわけですよね。そのために神経症になる人もいるでしょうし、アディクションに走る人もいる。そこから脱出しようとしても、自らの痛みに向き合うよりは、何かの考え方とか行動とか、自分でコントロールできそうな範囲に留まってしまう。

そうだと思います。今の無痛文明が巧妙なのは、そうやって残った苦しみから目を逸らす装置がたくさん用意されているという、二段構えの構造になっている点に注意しなくてはいけない。つまり、無痛化する社会というのは、まず実際に人間に襲ってくる痛みや苦しみを消滅させるテクノロジーやシステムがたくさん発達します。けれども、それで苦しみや辛さが全部なくなるわけではないし、将来襲ってくる苦しみや辛さから、今の時点で完全に逃げられるわけではない。無痛化する社会がその第二段階で用意するのは、どうしても逃げられない痛みや苦しみがあった時に、本当は感じているのに感じないことにできるためのいろいろな仕組みを開発するということです。たとえば娯楽産業のようなものがそうだと思います。今ある辛さから目を逸らす装置として、はっきり働いている、あるいは今何かを考えなきゃいけないのに、そのことから目を逸らす装置になる。
もう一つは「今のままでいいんだよ」 という言説をばらまくようになってきているんですね。それに乗ることによって、実は今の苦しみは苦しみではないんだと考えようとすることになる。社会が心理学化していますから、それでも残る苦しみは、「心のケアによって取り除こう」あるいは 「大した問題ではないんだと思おう」ということになっている。現在の無痛化社会というのは、かなり巧妙にできている。今後も、ますますこの傾向は進んでいくのではないかと予想させられます。

 「自分」というものがあって、自分の人生が自分の意志によって自由になる可能性がある、という認識をみんなが持ちだしたのは、わりと最近ですよね。以前は神とか自然とか、そういう第三者があることによって、苦痛とか不条理を受けいれたり、預けることができたわけです。でも今は、「自分」が中心にあって「本当に自分のやりたいことがきっとどこかにあるはずだ」とか「本当の自分を見つけられるんだ」と思っているところが無痛文明の根っこにあるような気がします。そこでリアリティのすり替えを行ってしまうような。

それは、よく考えなきゃいけない、これからもっと考えていきたい問題です。というのは、無痛文明論というのは長い思想史で考えると、やはり近代の思想だと思うんですね。おっしゃったように近代人の自覚というんでしょうか、つまり「人生は人間が開いていけるんだ」という考え方は、ここ100〜300年の間に地球のいろんなところで芽生えてきたもので、現在も続いていると私は思っています。その意味で、無痛文明論というのは近代的な人間観に立脚しつつ、今までの近代的な人間観で陥っていた穴ぼこから、どうやって抜け出せばいいのかということを考えたものだと思います。ここは非常に微妙な点なんです。つまり、自分の人生は自分で切り開くしかないと思うんだけれども、自分の人生を切り開くためには、自分と、自分を取り囲んでいる外部にあるものとの関係をどう考えればよいのか、というのが、すごく大きな課題になるということです。 そして近代以前に主流であった神や大きな命に、個というものを解消させるのではない道を開こうと考えているような哲学を主張していると思います。ただ、この本の中で考え方が完成しているわけではなくて、まだ芽生えの所で止まっています。この哲学や人間観というものを、どういうふうに発展させるかは、実は、無痛文明論以降の問題、これから考えていきたい問題です。
その上で言えば、まさに近代的な人間観が登場するにつれて、我々は、大きなしっぺ返しを無痛文明という形で受けているのだという見方ができると思いますね。たとえば、80年代のニューエイジの考え方は、そこをすごく強調したんですね。人間は与えられた存在であるということ、繋がりの中にある存在だということを、もう一度、頭だけではなく、体全体でわかり、スピリチュアルによくわからなきゃいけない、と言う。そうすることによって失われたものを取り戻せる、ということを主張しました。私は、その見方は半分は正しいと思います。ただ、ここまで近代的なシステムが整い発展している社会の中で、そういうスピリチュアルな考え方を単にリバイバルするだけで問題が解決するかという見通しがニューエイジの思想は甘かったと思います。つまり、そのような思想までも無痛化装置として取り込んでゆく社会の姿があって、それに対する洞察が浅かったと思うんですね。

 ご自身が本をお書きになること自体難しかったと思うのですけれど、公の言葉にした途端、そういう無痛化装置としての役割を作り出していってしまう矛盾もあるわけですよね。本当はその人だけが感じることのできる、ぎりぎりの所みたいなものだと思います。たとえば、無痛文明をどうしてゆくかという時に「ビルを瞬時に全壊するのではなく、ボルトを一本ずつ外すように解体する必要がある」ということをおっしゃっていますが、その行為自体、すでに自分のコントロールが入ることはないでしょうか?

自己解体は、瞬間的に、完全に、爆弾で爆破するやり方と、ボルトを一本一本内側から抜いていって、少しずつその形を変えて骨抜きにしてゆくような解体と2種類あって、「無痛文明との闘いは後者をとらなければいけない」というのが私の主張なんです。けれども、そのボルト一本一本を抜いてゆくと大体こんな感じになって、こうやって消えるんだろうなと予想して、その通りに解体してくのは、まさに無痛文明的な解体の仕方になっちゃうんですよ (笑)。それは解決にならない。だから難しいと思います。かといって、そういうやり方がダメなのか、というと実はそうでもないだろうと。つまりボルトを一本一本抜いてゆく時に抜いても全然崩れないかもしれないとか、ボルトを抜いてゆくと余計にビルが伸びちゃうとかね。訳のわからないことが起きるかもしれない、というものに賭けながら、それでも暗闇の中でジャンプしてゆくというような形を追い求めれば、可能性があるかもしれない。無痛文明を解体していく仕方にも具体的なきちんとした方法はないし、あってはならない、ということです。その道がどこに開いていて、どういう道筋を通き、どこへ到達するのか、という地図がまったくない状態でなくてはならない、というのが論理的な帰結です。だから、無痛文明論が現代文明からの脱出を考えた他の多くの本と異質だというのは、一つはその点だと思うんですね、多くの本は脱出のための自分のステップとか、「この方法を踏めば脱出できる」という感じになるんですよね。私はそれは違うと思う。

 無痛文明論は<>というものがあるという前提で、<>の中の作業について書かれていますが、これからアイデンティティが科学やテクノロジーの進歩によって、どんどん揺らいでいきますよね。もともと「生命学」を提唱されていますが、この点についてはどうお考えですか?

それは、おもしろい問題だと思います。将来、テクノロジーが進むことによって、<私>の体の境界が、どんどん曖昧になってくるのは避けられないと思います。私が今まで研究してきた、生命倫理、臓器移植、人工的な医療、あるいはコンピューター、通信のテクノロジー、バーチャルリアリティだなどを見ると、明らかに我々の境界を無くしていく方向なんですね。「いったいどこからどこまでが私なのか」「私の内部には、何があって何がないのか」そして「私と他人は何を共有していて何を共有していないのか」という問題がより曖昧になる状況が今後ますます訪れると思います。だとすると、無痛文明論で描いた自分の内面に向かって降りてゆくという作業も、<私>がどこにあるのかがよくわからない、ということが十分に予想されます。社会がその方向に進んでゆくとすれば、無痛文明論の考え方も新しい身体観とか、肉体観とか「自己像」に対応して、もう一度考えなおさなければいけなくなると思います。
ただ、<私>の捉え方に意味がなくなるような社会が本当に来るとすれば、現代文明がどうのこうのというより、もっと根本的な変化になるはずです。たとえば、霊長類とか哺乳類とか両生類とかが獲得したものすら我々が破壊して、別の生物になっていくというようなことですね。それはものすごく将来の話だし、人類がそういう根源的な選択をしない限り訪れないと思うので、 とりあえず<私>という存在者が重要性を失うところまで社会が変容してゆくことを、今想定する必要性はそれほどないと思っています。

 現実的な話に変わりますが、実際に身の回りにいる人達との関係性が無痛化文明の中に組み込まれていると気づいた時、私達は何ができるでしょうか? また、ご自身はどんな取り組みをしてこられましたか?

多くの人は、今気持ちいい関係を作るために、お互い多くのものに蓋をしていると思います。それが人間関係の中に現れた無痛文明であると思っています。自分の限られた人生を悔いなく生きるためにそれでいいのか、というところで、それぞれの人の実際の人生に戻ってくる。私個人も、そういう問題をずっと抱えて取り組まざるを得なかったことが実際にあって、その中でいろいろ学んできたし、気がついたことがあったんです。無痛文明論も抽象的な思考をするのと同時に、自分の身近で起こったどろどろしたことが全部裏付けとなって、そこから出てきたことがたくさんあります。
一般的な答はきっとないと思うんです。無痛文明に取り込まれている人がいて、それが身近な自分にとって意味のある人であった時に、あなたの人生が問われてくる。人は一人では生きられない。多くの場合、大切な人というのは身近にいるわけですよね。その関わりの中で、自分が自分の人生を悔いなく生きるためには、自分と大切な人との関わりをも悔いのないものにしていかなければいけないと思います。

ありがとうございました。


森岡正博 もりおか まさひろ

1958年 高知県生まれ
1983年 東京大学文学部倫理学科卒業1988年 東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学(倫理学)
同年 4月 東京大学文学部助手同年10月 国際日本文化研究センター助手
1997年 大阪府立大学総合科学部助教授
1988年 教授
2005年 大阪府立大学人間社会学部 人間科学科教授
2012年 大阪府立大学現代システム科学域環境システム学類教授
2015年 大阪府立大学名誉教授
同年   早稲田大学人間科学部健康福祉科学科教授
著書に『対論脳と生命』『生命観を問いなおす』
『無痛文明論』『感じない男』『生者と死者をつなぐ』他多数。

オフィシャルサイト
http://www.lifestudies.org/jp/

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