Vol.840

2025年7月 満月のたより

現実という枠を外す

Photo by Patrick Hendry on Unsplash

今月も皆さまに素敵な出会いをお届けできれば幸いです。

2025年7月 満月のたより

現実という枠を外す

ブッククラブ回の書棚を改めて見てみると、SFというジャンルに含まれる作品が意外とあることに気づく。空想科学小説とも呼ばれるSFには、数百年後の未来の地球を描くものもあれば、遥か彼方の宇宙を舞台に繰り広げられる帝国史、テクノロジーの一部だけが異なった現在を舞台とするものもあり、広範囲の作品がそこに含まれている。

空想を飛躍させ、今の地球上にある現実という枠を外してしまえる自由さがSFにはある。そこでは既存のルールには意味がなくなり、アンドロイドやエイリアンが当たり前のように存在し、そのことが、今現在の私たち人間の特徴を相対的に際立たせる。「生きること=Spiritual」というブッククラブ回のキーワードを思うと、実は人間を語ることが得意なジャンルであるSF作品が、こうして書棚に点在していることが腑に落ちる。

占星術や錬金術が科学に繋がる智恵を見出そうとし、世界のさまざまな叡知は知覚を越える次元への到達を見据えてきた。こうした目に見えないものを伝えようとする時、SFという自由な枠組みを持つ世界もまた、さまざまな語り方を可能にしてくれそうだ。


願わくは、あなたがたの探検の動機が、たんに貯蔵槽として使える他の宇宙を探すことだけではなく、知識への欲求、宇宙の息吹からなにが生まれるかを知りたいという切望であってほしい。なぜなら、たとえ宇宙の寿命が有限であっても、その中で育まれる生命の多様性には限りがないからだ。われわれが建てた建築物、われわれが生み出した美術や音楽、われわれが作った詩、われわれが送った人生――どれひとつとして、前もって予測することはできなかったはずだ。なぜなら、そのどれひとつとして、必然の結果ではないからだ。

 

– テッド・チャン - 『息吹』より


銀河ヒッチハイク・ガイド

ダグラス・アダムス / 河出書房新社

770円(税込)

都会に疲れ、地方のラジオ局で働く普通のイギリス人、アーサー・デント。パブでビールを飲んでいると、ある日突然、地球が消滅し、思いがけず地球人最後の生き残りとなってしまう。長年の友人までもが実は宇宙人だったことが判明し、彼が改訂を進めるはずの銀河系最大のベストセラー、『銀河ヒッチハイク・ガイド』を頼りに、広大な宇宙を共に旅する羽目になるのだった。登場する個性豊かな宇宙人たちが、地球のあの人やこの人を思わせる、SFコメディ・シリーズの第一弾。


プロジェクト・ヘイル・メアリー 上・下

アンディ・ウィアー / 早川書房

各2310円(税込)

冒頭、主人公は意識を取りもどすが記憶がなく、自分の名前すら思い出すことができない。状況を解明しようと奮闘する過程で、失われた記憶が断片的に蘇り、地球の現状、そして彼がそこにいる理由が次第に明らかになっていく。科学知識のフル活用で危機を脱する姿に手に汗握るのは、著者の代表作『火星の人』と同様だが、今作が大きく異なる点は共に知恵を振り絞るパートナーがいることだ。シリアスな問題に直面しても一貫して失われない前向きさが心地よい、未知との遭遇もの、バディものとしても秀逸な作品。


マーダーボット・ダイアリー 上・下

マーサ・ウェルズ / 東京創元社

上1100円(税込)、下1144円(税込)

職場の面倒に巻き込まれるぐらいなら、配信ドラマをビンジ(連続視聴)していたい…。そんな気持ちに覚えはないだろうか? 自身を統制するモジュールをハッキングし、あらゆる指令から自由の身になった人型警備ロボット。重装備でありながら人間に対して反乱を起こすでもなく、これまでどおり仕事を続けながら、実は密かに娯楽チャンネルに耽溺している。しかし警備任務に就く以上、平凡な日々が続くわけはないのだった。主人公が端正な言葉で自分と人間との違いを言い募るほど、なぜか人間臭さを感じてしまう、日本翻訳大賞を受賞した邦訳が冴える、人気SFシリーズの一作目。


一九八四年 [新訳版]

ジョージ・オーウェル / 早川書房

990円(税込)

本書を読んだことがなくても、「ビッグ・ブラザーがあなたを見ている」という、作品中のキャンペーン用語を知っている人は多いのではないだろうか。それは1949年の発表以来、管理社会の究極の姿として、ディストピアSFの古典である本作がたびたび例に挙げられ続けるからだろう。個人の自由と権利、それに対する、国への貢献の最大化を推し進める体制。大小の違いはあれ、この2つが常に衝突し続けていることを、現在でも本作が世界中で販売部数を伸ばしていることが示しているのではないだろうか。


わたしを離さないで

カズオ・イシグロ / 早川書房

1078円(税込)

物語はある介護人の静かなモノローグで始まり、その穏やかさは結末までほとんど変わることがない。しかし緻密な構成によって、そこに登場する人々の身に起こっていることの重大さを、読者は間もなく知ることになる。物語の終盤で、舞台となる施設のあり方が明らかになってくるが、重大な社会問題の多くに気づきながら、根本的な解決法を私たち社会全体が実行できずにいることを思わずにいられない。


アルジャーノンに花束を [新版]

ダニエル・キイス / 早川書房

1078円(税込)

大人になっても幼児ほどの知能のチャーリーは、実験用マウスのアルジャーノンと同じ治療を受け、急激に天才的な知能を得ることになった。しかし、アルジャーノンに変化が起こり始め、チャーリーは治療で得た高い知能がゆえに、自身の行く末を誰よりも早く知ることになる。幸せな物語とは言い難い展開だが、人間には知能と共に共感が備わっており、それを働かせることなしに、温かな関係性は生まれ得ないということを強く感じさせる。


くらやみの速さはどれくらい

エリザベス・ムーン / 早川書房

1320円(税込)

自閉症のルウには得意な仕事も趣味もあり、友人もいて、これまで歩んできた彼なりの生活がある。それにもかかわらず、「ノーマル」になれる可能性のある実験的な治療を受けることを、職場に残る条件として課されてしまう。物語の結末、そして、自閉症であることがありままの自分であるという登場人物の語りに、私たちの社会においての「ノーマル」であるという言葉の意味を深く考えさせられる。


あなたの人生の物語

テッド・チャン / 早川書房

1166円(税込)

言語学を専門とするルイーズは、物理学者のゲーリーと共に地球を訪れたエイリアンと直接コンタクトし、彼らの言語を解明していく。その過程を通して人類固有の概念を超えた認識を手にし、自身の内面、そして家族との繋がりに変化がもたらされていく。映画『メッセージ』の原作である表題作の他、秀逸な世界観の中で展開する物語全8篇を収録した、短篇集。


息吹

テッド・チャン / 早川書房

1210円(税込)

20年後を訪ねることができる〈歳月の門〉と20年前を訪ねることができる〈歳月の門〉。バグダッドとカイロを舞台に語られる寓話のような作品、「商人と錬金術師の門」。毎日の肺交換が行われる限り永遠の寿命を持つ人々の社会の盛衰と、後に現れる知性に託す深い願いに、心を大きく揺さぶられる表題作「息吹」など、冴えわたる物語の設定が思いがけない感情を喚起する、9篇の短篇集。