『Interview Archive』は、過去の『NewsLetter』に掲載されたインタビューです。
今回のインタビューは、2002年に行われたものです。
予めご理解のうえお楽しみください。

Interview Archive #30

文字の遺伝子を読み解く

白川静

4000年、いやそれ以上。人類の歴史と共に歩んできた「文字」というメディア。
人間は文字を持つことで、意味の世界を共有し、飛躍的に内的な世界を広げていった。
もともと「文字」は「呪」であり、古代の人々の内面的世界を表すアイコンであったという。
人類と共に歩み、そしてなおもそのフォルムを生き物のように変化させる「文字」について、
生涯をかけて研究している漢字研究の世界的第一人者、白川静。齢92才。
その強靭な精神力と仕事に傾けるパワー、そして深淵なる「文字」の世界についてお話を伺った。


_漢字の中に呪術的な世界観を見いだされた事が、それまでに全くない白川先生独自のアプローチであり、才能だと受け止めているのですが、どのようにしてこの世界観に達したのでしょうか。

 それは私だけでなく、学問をする人というのは、皆そのような姿勢をもっとると思う。まず自分の内に問題を持つ、疑問を持つ、それを解明するために色々努力する。そうしてやっている内に、いわば鉱脈を掘るように、あちこちに原石を発見し、それがひとつの世界になっていく。はじめは単一の世界で、たとえば「万葉」だけを読んでいる。他にもそうしたものがあり、インドにも中国にもオリエントにもあることがわかる。そういうものを通じて、「何か共通点があるのだろうか?」と、自分で疑問を見いだしていく。人に問題をあてがわれるのでは絶対に駄目。だから僕は生徒に教える時、「君は何々をしなさい」とは絶対に言わない。「自分の欲する所を勝手にやれ、そのかわり、徹底的に貪欲にやりなさい」と言うんです。

 いわゆる民俗学という広大な領域では、綿密な仕事をした柳田国男や折口信夫などが代表するように、世界で日本が最高と言ってもいいでしょう。なぜなら、日本は他の国と少し離れているのと、保守性というか、現在あるものを磨きあげていくという所があるんです。文字、書、絵などの場合でも、それらは中国などからやってきて、日本で最終的に完成されている。舞楽などの文化も未だに残っていて、演奏されているような国は日本しかない。たとえば中国にそういった民俗学があるのかというと、ないのです。なんせ中国は広く、歴史があり、色んな民族が入れ替わっていて、作業が容易に進まなかったのです。日本の民俗学の豊かさには、僕は若い頃から親しんでいた。それで中国の民俗学を彼らがやらないから、では僕が覗いてみようと思ったんです。そうすると「万葉」における民俗的発想や表現と「詩経」における表現とが一致してくる。

 たとえば、「天離る、鄙の長路ゆ、恋ひ来れば、明石の門より、大和島見ゆ」の日本語でいう「見ゆ」は、「島が見える」ということだけを言うてるのではない。それだけだったら歌にもならん。「見る」ということは、相手に働きかけ、自然に対して自分は今、向かいあっている、融けあおうとしている、などの内的な交渉を持とうという態度が歌に出るのです。そういう民俗学的な考え方は、「詩経」にも通じている。だから、中国の研究者が苦労していた歌の理解が何でもなく見えてくるんです。

_先生の書かれた『文字遊心』という本に書かれている「狂字論」に大変興味をもちました。中国人の言う狂気、「狂狷 (きょうけん)」についてどのようにお考えなのかを教えてください。

 「狂う」というのは、本当に気が狂うたんでは、話にならん(笑)。狂うような状態であるということやね。その「狂うような状態」というのは、少なくとも正常な状態ではないわけです。正常なる状態というものが、もはや、本当の正常なる状態ではないという場合に、そういう状態を自己破壊せねばならんのです。蝉が殻を脱ぐように、そこから脱皮せねば新しい世界はもうない。死ぬ以外にない。

 殻を破るということは、反抗し、抵抗し、破壊するということやな。そういう精神が「狂」なのです。狂という字は普通、「王」という字を書きます。しかし、この「王」という字には狂(きょう)の音はない。この「狂」という字の本来の形は、下の方に「まさかり」をもっとる。これは一番の霊力を持つと言われるものであるが、これに身体を触れるということは、この霊力を身に受けるということなんです。

 だから、この「まさかり」の上に「あし(足)」を乗せる。ちなみにこの「足」は、二つ重ねると「歩く」という字になるんですが、この「まさかり」の上に「足」を重ねるということは、霊力を頂いたということになる。

 古代人というのは、一種の象徴主義者であり、こういうことをやることによって、それが実現すると思っていたんです。子どもがよく「見立て」ということをやる時、「これはお姫様のつもり、これは何やらのつもり」で、そのつもりの世界に入ってゆく。それと近い感覚で、「まさかり」に「あし」を乗っけることにより、霊力を得たということになり「勇往邁進(ゆうおうまいしん)、もはや恐れるものはない」というような意欲を与えられたと思うのです。

 だから、現在では「狂」という字は「けものへん」がついているが、本来は王権のシンボルである、「まさかり」からその霊力を授けられた者、王に代わってその行為する事のできる者というぐらいの力を与えられた、という意味がある。「匡(きょう)」という字も、シャーマンが隠れた所でやる呪いの儀式を行っている様子が現されているように、霊力を身につけたものという意味になります。「狂」は単なる狂うという意味ではなく、異常なるものを内に持っているという風に、悪に近いような力を持ったものになるのです。

 「中国というのは元々、沿海、北方、西方、南方とそれぞれ別の集団を成していた。これらの民族は、大陸の真ん中にはおらず、周辺に住んでいた。なぜかというと、中国大陸の真ん中には、大きな河が流れており、度々洪水があり、古い時代は恐れて人は住まなかったのです。ところが段々、河の洪水などで平原になり、田畑の条件が揃ってくると、平原に移ってくる。平原に移るにつれて、各民族の衝突が発生する。あの広い大陸を使って縦横無尽にローラー作戦のようなことがあった。それはとにかく激しい。根こそぎやって入れ替わっていくんです。国自体、地名も変わってしまうのですから。そうやって異民族が混成されたのが漢民族なので、民族的に言えば素質的に一番優れている。

 しかし、たとえば異民族が支配する場合、知識人はどうなるか?彼らは政治的、社会的にきびしい圧迫を受ける。それは、もうまともな気持ちでは生きておれんのです。彼らは現実を否定しなければならん。しかし、現実を変革することはできない。そうすると、残された道は自己変革しかないわけです。その自己変革の方法が「狂」なんです。だから、異民族の支配下に入ったと同時に、風狂の人たちが沢山出てくる。それは簡単なものではなく、中国の場合、存在の根拠を問われるくらいのものです。

_中国の思想家や政治家の中には、「狂」と呼ばれることを良しとする、「狂」と呼ばれたい、というような気持ちが強いような気がします。日本の文化には「わび、さび」という一つのコンセプトがメインにあるかと思うのですが、方向性は違えども、中国の「狂狷(きょうけん)」というのは、それと同じような位置にあったものなのですか。

 そうですね。中国では一種の否定を媒介としているように見られます。「わび」の場合は否定を媒介としないままで、言うならば直線的な動きですね。前者の場合、自己否定しなければ、生きるということはできないのです。だからこういった「狂」を称する連中は、新しくなった社会秩序や政治秩序の中で存在する、適応することを許されない連中なんです。

 日本の場合、そんなことはなく、困ったら坊主になればお終いですね。巨大な悪の力といわれるようなものは、日本には政治的、社会的なものとして実現されることはなかった。中国で異民族の支配になると、今まで最高の知識人たちが、いわゆる乞食のような扱いを受けてしまい、このような扱いを受けたまともな人間は、もう狂うとらなければ、やってられんのです。日本と中国では、社会的な情勢が全然違う。日本には、こういった否定的な精神というものは作動する時代がほとんどなかった。だから、いつまでたっても実業界、政界でも節操のないことをやってますね。十分な自己否定した上での脱皮、自分の変革というのができないのです。もちろん、私らも含めてやぞ (笑)。

_「真人(しんじん)」という言葉がありますが、この「真人」というのはどのような人たちだったのですか。

 「真」という字は、人が行き倒れしている姿を表している。だけども、そういう人の持っている霊というものは非常に激しい。そしてその行き倒れというものは、単なる行き倒れでなく、神がそういう運命を与えたものという解釈をしていたんです。昔の人は、いわゆる「悪」という考え方はない。その人が犯したんではなく、何かの神がそうさせたという。だからお祓いをすればよくて、刑罰という考えもない。何か異常な人というのは、皆すべて神の使いと考えていた。この字の構成要素を見てみると、人が倒れて、大きな目を見開き、髪がふり乱れているというように書きます。ところが、こういうものは恐ろしい力をもつと考えられていて、ここに目という字をつけると「瞋(いかる)」という字になる。そういうものは大変恐ろしいものだから、「愼しんで」これを祀らなくてはならない。そして、この神聖なものを「置く(元の字はうかんむりに眞)」という意味にもなります。こういう風にして、関連して字ができます。だから、のたれ死ぬ者は、永遠なる生命の保持者ということになるんです。

 『荘子』の中に、まず「真人」というのが出てきます。荘子は当時で言うと宗教者で地位も高い位にいました。ちなみに孔子はただの葬式屋なんです。だから荘子たちは儒教を非常に批判するんです。彼らのような宗教者というのは、現実をそのまま肯定しては、宗教は成り立たない。必ず否定的な精神を媒介にして、そこから世界を見る。まず「否定の精神」を持つということですね。だから荘子の思想は「否定の思想」であり、「無」の思想であると言われているんです。荘子の思想を読んでいると、キェルケゴールのいう実存などと非常に似ている。その彼が、「真人」ということを言っていた。「真人は火に会うても暑くない。水に会うても溺れない。」あらゆる現象的なものを超越しているということですね。

_私どもの書店は、ブッククラブ回という名前です。孔子の弟子に顔回という人がいますが、「回」という字と「顔回」についてお話を伺えますでしょうか?

 顔回は、本当の名前であって、字(あざな)は子淵(しえん)といいます。この「子」というのは元々王子さまの名前であったのですが、そのうちに一般の人にも使われるようになった。本名というのは、人に知られると、名前そのものが実体であるので、呪いをかけられる恐れがある。日本でも女の人は名前を言わないで「忌名」といって表には出さなかった。子淵の「淵」の所には、はじめ領地の名前を付けていた。ところが一般の人にはそんなこと関係ないので、だから本名の「回」という字に関係するような字をつける。

 なぜ、この「淵」という字と「回」という字は関係があるのかというと、「淵とは、回水(かいすい)なり、巡れる水なり」ということから来ています。「淵」というのは、川に水だまりができて、しばらくそこで渦のように巻いて、そして流れるという。だから回と淵はつながりが出てくる。回という字は、元々うずまきの形からきているのですね。そうした意味をもって使われているのです。

 皆、この時代の人たちは、字と名前が対応している関係が決まりのようにある。ところが、孔子の名前は、名は「丘(きゅう)」、字は「仲尼(ちゅうじ)」というんです。このままだと関連性が見えてこないんですが、孔子の母親は「顔氏」であり、孔子の父親の「叔梁紇(しゅくりょうこつ)」というのは、勇士で城門を一人で持ち上げるというくらいの力持ちで、宋と言う国の王室出身なのです。しかし、家柄がいい所の出身なはずなのに、孔子は自分の親の墓も知らないと言われている。これは儒家の連中が、名門に仕立て上げるために、でっちあげたようです。本当は、尼山に仕えている巫女が産んだ、名も知らない父親の子供だった可能性がある。

_実は先生の書かれた『孔子伝』にはたいへん感銘を受けたのです。それまでの通説だった道徳的な孔子像とは全く違う視点を見せていただきました。彼が本来、呪術的な集団である「儒」の一族を背景に持っていたことなどを知ると、孔子の格言的な言葉も全然違う意味を持ってきます。

 それはね、文献をちゃんと調べていたら、自然に出てくることなんだけれども、通説的な、ああゆう風なものになると、一種の神話みたいに作り上げられてしまうんです。イエス・キリストだって、キリストになる前のイエスはどんな人間だったか色々議論があるわけであり、お釈迦さんだって、あれだけの説法をしたといわれているが、お釈迦さん自身が書いたものは一編もない。キリストもない。孔子も一編もない。本人たちは何にも残していない。ただ弟子たちがでっち上げた。そういったでっち上げた中で、いくらかの預言者たちが、またそういった信仰の対象になって、その結果、今も争うているわけやな。彼らは、神そのものではない。預言者の一人に過ぎないのに、その一人のために、今も世界がかき回されておる。情けないことですわな。僕が思うに、人間はもう宗教を卒業せねばならんと思うとる。まあ、人間が誇れるものというのは、文化。自然の世界には文化はない。しかし、自然に順応するという意味では、他の生物のほうが、人間よりはるかに正直で、全うな存在ですわな。人間は色々悪いことをやるけれど、彼らは意識的に悪いことをやるということはない。カラスがそこら辺をつつきに来ても、それは悪いことをやっているつもりは毛頭ない。与えられたものをいただきに来とるだけや。しかし人間がやるときは悪意があるからな。

_文字の研究もそうですが、白川先生の「解る」ということは、直感的、全体的な理解の仕方があるような気がします。それについてはどのようにお考えですか。

 それはな、すべての知識がはじめから全体観をもって与えられるものではない。まず部分から次第に広げて行く以外にはない。しかし、知識というものは、一遍与えて「覚えろ」というものでもない。塗りもんと一緒で、もう何十回も塗りかさねることにより、はじめてその色が完成する。何度も何度も、そういう機会を与えなくてはならん。その機会を出し惜しみせずに、いっぺんに与えたらいいと思う。漢字で言えば、はじめは読めませんから、ルビをつけたらいい。あのルビをつけるという方法は、世界中、他にはどこにもないすばらしい方法です。

 日本語の場合は一つの漢字を見ても何通りも読み方がある。たとえば「日」という字の読み方にも「にち」、「じつ」、「ひ」、「くさか」と、いくつもある。全部読み方をつけてあげて何回も読ませる。そうすれば何回もやっている内に、自ずから必要な字は理解できるようになる。色んな読み方ができると、読み方の間や他の字との連絡ができるようにもなってくる。この「若」という字を見ても、これは巫女(シャーマン)が祈りを上げて、神の言葉を聞いている時を現す字ですが、「じゃく」とも読める。このシャーマンは若い女だから「わか」と読める。神の言葉をトランスエクスタシーの状態で聞いて、それを伝えるのであるから、「若(かく)のごとし」の「かく」とも読める。意味は「そのままお伝えします、こうおっしゃいました。」という意味ですね。字はいくつか使い方が解ると、連携をもち、組織をもつようになる。そのようにして学ぶと、文字の知識が非常に確かなものになる。このようにして覚えた知識は、単に英語を一つ覚えたというような知識より、豊かさが違ってきます。それは古い時代の言葉の歴史、文字の成り立ち、そういうものを全部含めた知識として、ここで総括される。だから、文字教育というのは、知識のいわば原点であると思う。まあ、こういうことは、僕の書いた『字訓』『字統』『字通』の三部作を読んでもらえれば、解ってもらえると思う。

_これから未来に向けて漢字はどのようになっていくとお考えですか。

 それはね、文字が人為的に滅びるということはないんです。なぜなら、言葉と文字は対応しているからで、民族がいる以上、言葉はそのまま残る。その言葉を表記する方法としての文字も、非常に密接な関係があるので、残っていくんです。例えば、中国語は「単音節語」なのですが、これをローマナイズしたらどうなるかというと、もう全然意味がわからなくなってくる。一音節が一語であり、「い」なら「い」が60もの種類があるので、区別がつかなくなる。文字は、時代に適応するかのように変化が加えられるだろう。例えば「殷周」の時代には、絵のような文字があった。しかし、それを竹べらなんかに伝票のように字を書くようになると、もっと直線的なものにならないと、上手く使えない。複雑なものは少し簡単にするなどいくらか変化はありますが、体系的になくなるといったことはないと思います。

 何故エジプトのヒエログリフがなくなったかというと、その文化をもっていた民族自体が滅びたからです。民族が滅び、他の民族がとって変わると、その文字を音だけで使うのです。意味的には使えないけれど、ひらがな、かたかなを使うようになる。オリエントのアルファベットが後にローマ字として普及するように、皆が使う形として対応してくる。インド、ヨーロッパ系の文字は横に連ねるような形です。しかし、中国やチベットは「単音節語」だから、この形にふさわしい表現を見つけない限り、文字としての生命力を失う。現在ベトナムは漢字を廃止し、ローマナイズしている。たとえば「ポシへ行きます」(お医者[博士]さんへいきますの意)という言葉を音だけでやっていると、約束だけになり、もとの意味がわからなくなってしまう。そういうことをしていると、文字以前の状態に逆もどりして、再生産ができなくなってしまう。

 もし、中国人が漢字を捨てたらまあ、捨てることはできないはずですけれど非常に貧弱な言葉を持つようになるでしょう。たとえば「い」なら「い」という音をもつ言葉を整理して、10くらいまでに縮めなければ、区別が付かなくなるんです。韓国でも、今ハングルを使っていますが、あのハングルで表している言葉には、元は漢語であったものが沢山あります。だから、韓国がああやって漢字を捨てたということは、果たして韓国の文化にとって、将来よかったかどうかという問題がある。現に、自分の国の古典がまったく読めなくなってきている。そうすると、将来の文化的な発展というものは、他の要素に依存することになる。日本も日本語の半分以上は漢語なんです。日本も多くの漢字を捨てて、だいぶ植民地文化になってきてしまいましたね。そうすると、歴史のない、時間的に過去のない人間になる。影のない人間というのがあるが、そういう人間になるんです。

_日本人がもっと漢字を学ぶことで、何かが変わるでしょうか?

それはね、知識というものは、今の教育では与えるものとしてやっている。与えられたものは、本当の自分の物ではないんです。表面に付着しているだけやな。

 国語で「知らす」という意味は「支配」するという意味があるんですが、「知る」というのは、自分が主となって、支配するという意味がある。つまり、言葉を自分の物にして、自分がその主体となって使うというのが言葉なんです。それを今では、与えるだけにしておる。しかも、出し惜しみして少しずつしか与えない。それも間違いだらけのものばかりだ。こんなことをやっていたら、日本人は知能的に萎縮してしまいます。人間は若い時には非常に吸収力がある。そういう大事な時に、解っても解らんでもいいから、なるべく多くのものに接する機会を与えたほうがいい。そのうち解るものは自分のものとして、ドンドン成長していく。解らんもんはそれだけの宿命だから……。まあ気の毒な言い方するけれど(笑)。芭蕉の『野ざらし紀行』のはじめに、「汝が性(さが)のつたなきを泣け」というのがある。捨て子を見返りもせずに彼は出ていく。それくらいの気持ちがなければ文化というものは進まん。あらゆるものを平等に同じ調子にやっておったら、天才的な特殊な才能を持つ者も全部駄目になってしまう。だから自由にやらしたほうがいい。解るものに解らしたらいい。知るものに知らせたらいい。しかし、与えるという態度はいかん。なるべく自発的に疑問を持って、自分で探求させるようにしなければいかん。

 たとえば、生徒に自分の名前に使っている漢字の意味を調べさせるんです。白川だったら「白」という字には髑髏(されこうべ)という意味がある。そして関連性を見ていくと、同じ「白」という字を使った文字に、本来の要素を見つけだせる。そうしてはじめて「白」が髑髏という意味をもつことが証明される。文字は孤立して存在するのではなく、一つの体系の中にあるということを探させると、文字が確固とした世界をもったその一つの部分であり、その文字の位置というものが理解できる。そうすれば、文字に対する本当の理解の仕方、いわゆる物を考える力というのが身に付く。だから僕は、漢字教育の未来には決して失望しておらんのです。動物の骨に刻まれた古代の文字も、6~7000あるが、判読できたものが、4000ほどあります。あとの物は、一回位しか出てこなくて、文例がないのでできない。いくつか出てくれば、ぴたっと釈がつくんだけれどもな。

 _一つのことに傾けられる集中力は、白川先生の場合、どこからくるものなのですか?

 それは、君。なまけんことだよ(笑)。やるときは集中しなくてはならん。僕はここの所、風邪を引いて五日間ほど時間を失って、残念でならんのです。大分仕事が遅れた。毎日原稿を書いとるからね。今『説文新義』というのを出していて、その次に『金文通釈』。あれは現在9冊あってもう20年前になるんですが、この間に色んな資料や研究が出ている。それらを全部目を通して、書き足して、今度もう1冊仕上げる予定です。歳を考えていたらそんなことはできんよ。

_本日は、どうもありがとうございました。


白川 静 (しらかわ しずか)

1910-2006年、福井県生まれ。立命館大学法文学部卒業。立命館大学名誉教授。
在籍中も教論などをつとめる。卒業後も同大学にて教授となり、講話をまとめた『金文通釈』『説文新義』を発表。1981年、立命館名誉教授となり、文字の成り立ちをまとめた初めての字源辞書である『字統』を刊行。毎日出版文化賞特別賞受賞。『字訓』刊行後も数々の賞を受賞し、1997年文字文化研究所所長就任。2001年井上靖文化賞を受賞。著作は他にも、『漢字』『白川静著作集』『詩経』『甲骨文の世界』『金文の世界』『孔子伝』など多数ある。2004年、94歳にして、文化勲章を受賞。

 ■白川静の世界
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/cl/shirakwa/index.htm

■立命館大学 白川静記念 東洋文字文化研究所
http://www.ritsumei.ac.jp/research/shirakawa/

■白川文字フォント (入力した漢字の古代文字が表示できます)http://www.dl.is.ritsumei.ac.jp/Shirakawa/search/index.php


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