『Interview Archive』は、
過去の『NewsLetter』に掲載されたインタビューです。
今回のインタビューは、2010年に行われたものです。
予めご理解のうえお楽しみください。

Interview Archive #33

「言葉」を持って、 矛盾の中へ。

思想家 評論家 / 西部 邁

言葉がひたすら浮遊し、論理が破綻し、
人と人、あるいは様々な社会関係や公共性が無残に分断されていく現代。
人は、矛盾に満ち満ちた現実と対峙しながら、どう生きてゆけばよいのか。
今回は、卓越した論客としても知られる、
思想家、西部邁氏にお話を伺った。

自分の感情の中で、自分の人生を通じて、あまり揺らぐことのない、
あるいは最も深く最も安定した感情は何だろうか?
『BOOKCLUBKAI NEWS LETTER interview 』より


B:今日は、西部さんにいくつかお聞きしたいことがあります。まず、ご著書『昔、言葉は思想であった』を、そのままストレートに解釈すると、今、言葉は思想ではないということなのでしょうか?

 昔ね、言葉ってものがまだ素朴な時代、ある言葉を言ったり、作ったり、あるいは使う場合、具体的状況というものがあったわけです。例えば、漢字で「貨幣」と言う時、貨は上が「化ける」で、下が「貝」でしょ。貝っていうのは宝物という意味だから、貝を持っていると色々なものに「化」けられる。弊は、「神への送り物」として使われる「御幣」を指していて、神社のお札のようにみんなが信用しているもの。貨幣ってのはそういうみんなが信用する便利なものだって事を、表している。

 それからお金、マネー(Money)のことでちょうど思い出したんだけど、ユーノ(Juno)という女神が書いてね、男女の結婚の時に忠告を発するらしい。「浮気しちゃならねぇ」とか、「亭主に尽くさなきゃいけない」とか、そんなことだろうね。神様からの忠告だからありがたいことだ。このユーノの御託宣が、「モネータ」(Moneta)と言われていたらしくて、明らかにmoneyの語源だね。このことから何がわかるかというと、マネーの裏づけとして、何か崇高なものがそこに居るんだということが言葉に出てきているわけ。

 経済的な次元と宗教的な次元が表裏一体だということだね。だから「昔、言葉は思想であった」っていうのは、物事を、ある広がりをもって、ある奥行きなり深さなりをもって捉えられていたということだね。素朴といえば素朴ですけども、安定していると言えば安定している。世の中を健全たらしめんとする、というところで言葉が使われていたんだ、と僕は考えるんです。しかし、だんだんと文明が進むにつれて、言葉の持っている多面的なものが分離されてくるわけです。それで最近だと何? サブプライム・ローン? あれなんか、宗教はおろか国家とも関係がないような、そこらの証券会社が適当に偽札を刷っているようなものだよね。剥がされてさらに断片化されてデリヴァティヴとなってね。だから僕が言う本来の思想には、何か「包括性」っていうのかな、コンプリヘンション(Comprehension)が重要なんだ。comprehensionには「包括性」の他にもうひとつ、「理解」という意味があって、つまりアンダスタンディング(Understanding)。これ、「下に立つ」って意味だから、昔の人は物事の底から裏側から奥行きから、物事を理解するためにはそうやって包括的に捉えなきゃ理解したことにならんという健全さを持っていたわけです。だから僕があなたを理解しようとしたらそれこそ高みから見ていたんじゃ理解できない。で、あなたの下にひれ伏すとまでは言わないけど、ともかくunderstandすることであなたの基礎、ベース(Base)が、土台が見えてくるということだよね。

 ソクラテスがそうだったというよね。あいつは道端に座って、乞食哲学者やっていたっていうのは、座った方が良いからなんだ。座っていた方が人の姿がよく見えて、おっちょこちょいぶりとか、卑怯ぶりまでよく見えてくるというね。まあ、そういうことだったと思います。

 今、言葉が思想でなくなったとすれば、「あなた、どこの出版社ですか?」「で、ご注文は何?」というように、すべて分断また分断ということかな。アメリカで暮していた時の話だけど、アメリカ人のバカタレがね、初対面の時にインテリって必ず聞くんですよ、「What’s your specialty?」って。僕はいちいち「専門をなくすのが、僕の専門です」って答えていた。今、日本でも結構流行ってきてるよね。「ご専門は何ですか?」って。うるせえってんだ。

B:スペシャリストほど価値があるという……

 そう。僕はスペシャリストであることをかなり最初の段階からやめようと思ったのね。だから本だって、広く浅く読まざるをえなくなっちゃう。

 ただ僕これ本気で言うんだけど、「読書ってつまらねえな」と思うの。ほんとは人間、包括的に生きていると、おそらく自分の頭があればそれでいいし、あとは他者とどういう関係を持つかってことが重要ですよね。本じゃないんだな。こんなこと言うとあなたがた困るかもしれないけど(笑)。

 例えば、あなたと付き合おうかなと思ったらね、僕はこう見えて──どう見えるかはともかく(笑)──すごい複雑なわけよね。人間っていうのはそういうものだ。あなたが僕のこと好きだって言ったって、目つきひとつで、「実は違うんじゃないか」とか、色々考えさせられるでしょ。だから本来は、生きるということ、「生」って言っておけば、生がまともであれば、人間たいがいのことを包括的に感じさせられて、考えさせられて、当然書くとなったら否応もなく包括的に書かざるをえないってことになるはずなんですよね。そこでは本は読む必要がない。「だってプラトンがどんな本読んだかなんて聞いてないし、本なんて無かったんだから。お釈迦様だってそうだよ(笑)。

B:そうですね(笑)。

 しかしそうは言っても、付き合ってもたいしたことない奴が増えてくると、どっこい「本」というのが出てきて、ある程度幅広く本と付き合ってた方がスッキリするってことがあるんだね。だから僕も十年にいっぺんくらい、ある種クライシスみたいなものが訪れる時、ボーッとしていてもますます危機が深まるだけだから、藁にもすがるような思いで少し集中的に本を読んだことはあるよね。

 「思想」って言葉はなんて訳すかというとすごく簡単で、Thought。thinkの名詞ですよね。考えるということ。だから思想家なんていうのも簡単で、考える人=Thinker。考える以上は単純なことについては考えなくていいわけだから──だって考えなくて済むことを普通、「単純」っていうんでしょう──だから考えなきゃいけないだけのものならば、少々はコンプレックス(Complex)、複雑なはずですよね。だから僕は専門学者なんていうのは「この分野しか知らない」ということで、そんなの考えることとは無関係だし、最初から軽蔑してるとこあるんだね。

B:その「考える」こと、「思想」の問題ですが、日本では「知識人」という言い方はあまりしなくて、例えば西部さんも「論客」なんて呼ばれることが少なくないと思うんです。

 論客ね。ま、勝手に人が呼んでいるだけですけども、自分が論客って言われていることは知っています。なぜそんなふうに呼ばれちゃうかというと、先程の答えと関係あるんだ。物事というのは複雑で、だから包括的に考えなきゃいけなくて、その包括的な考え方のことを思想と呼ぶのだとしたらそれはどこから出てくるのか。「考え」というものは「考え」それ自身からは出てこないところがあって、人が生きるってこと、良かれ悪しかれ喧嘩も交えて、他者と交際するというね、この場合「他者」は死んだ人も入るし、未来の子孫も入る広大なものですけど、そうした他者との付き合いとしての生の実践の中で「考え」が出てくる。

 そういう風に言った人はたくさんいるけど、一番わかりやすいのはイギリスの経験論です。アメリカだったらプラグマティズムで、僕はチャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce)という人が一番好きなんだ。この人がプラグマティズムっていうのをつくったんだけども、根本の意味はね、プラグマっていうのは「実践」ってこと。「人間は生の実践の中で論理の仮説を形成する」という事について考えた人だ。

 人間の論理はほんとは可能性が無数にあって、無数の論理をつくることができるんだけど、でもそのうち自分が大事だと思う論理の体系しか自分はつくらないというか、語らない。その自分が大事だと思う判断基準はどこから来るかというと、それが「生の実践」からやってくるわけね。生きているということの中で、「こういうことだろうなぁ」と感触をつかんでいくわけさ。そうしたらね、さあ実は次の事に気づくわけですよ。生の実践ってのは、ものすごく感情を伴うものだということにね。

B:「思想」と「感情」、二つの言葉を並べるとそこに通路はなさそうですが、今おっしゃったように、あいだに「生の実践」が入ると確かにそうです。

 そうでしょう。目の前にいるあなたを、「クソ生意気な野郎だ」と思ったとして、その理由を考えたりする。ところが1時間経ったら、「あ、さっきそう思ったの、間違ってた」なんてことがわかって、別の理由を探したりする。こんな事しょっちゅう起こるわけね。つまり、論理の前に感情がある事は確かなんだけど、その感情が極めて不確かで複雑で、あてにならん、って事に気づくわけ。そしたら次に、自分の感情の中で、自分の人生を通じて、あまり揺らぐことのない、あるいは最も深く最も安定した感情は何だろうか? ということを考えざるをえなくなってくるわけですよね。

 論理ってのは前提から始まるわけだから、つまりその前提は論理から出てこないわけで、つまり感情から出てくる。その感情はさっき言ったように不確かだから、だからこそ「根本感情」を見つけなきゃいけないということになる。

 で、ぼくが論客と呼ばれたりするのはなぜかって話に戻るけど、僕は論理の前提が感情から出てくるということを知っていて、さらに「相手はどんな感情を前提にしてものを言ってるかがパッとわかる」というようなところがあるもんだから、それをからかったりするわけよね。一方に別の感情を持ってきて別の論理をつくることもできて、やがて「お前の感情と俺の感情とどっちが説得力あるか」という議論に引きずりこみ、「俺の今見つけつつある根本感情の方が説得力ある」ということを納得させてしまう。

 だから論客なんてのはいつも人から嫌われているし、事程左様に大変な人生だということをぜひこの機会に知ってもらいたい(笑)。

B:次にお聞きしたいのは、「保守」「保守思想」についてです。いわゆる戦後民主主義が六十五年間にわたって続いてきた中で、「伝統」というものが見えにくくなっていると感じます。私たちの年齢的にもちろんそうですし、親の話などを聞いても、そこから「伝統」が垣間見える気がしないのです。

 僕は北海道出身で、戦争が終わった時に小学校一年生でした。それこそ伝統のない地域で、しかも伝統が全部投げ捨てられるような時代に生まれあわせてね。そのせいもあるんだけど、次のように最初考えたんですよ。

 最初は誰かな? 小林秀雄かな。田中美知太郎もそうかもしれないし、福田恆存も三島由紀夫も異口同音に言うのは、「自分達が思う伝統っていうのは、具体的な作品じゃない」ということなんだね。簡単に言うと、ここに茶碗があるとして、その茶碗の形や模様、手触り、その他に含められている日本国民の精神と精神の形、あるいは「型」というべきか、それが伝統なんだって事をみんな言ってる。で、僕のほうは後で生まれていて一日の遅れがあるから、その分理屈において一日の長があって、じゃあその「精神の形」って何だ? ということを次のように考えたの。

 生きるっていうこと、生の実践ってことは、いつも葛藤(Conflict)に苛まれているのね。矛盾に満ち満ちているわけさ。「根本感情」って言ったけど、ほんとの根本感情っていうのは、仏教用語で言えば「悟り」であって、完全無欠な境地ですよね。そんな所に私は行けないし、行きたくもねぇから──だいたい坊主なんてホラ吹きとしか思ってないから(笑) ──そうすると本当の根本感情にたどり着けない以上、自分のみならずね、多くの人々もそうだろう、人間一般がそうだろう、矛盾に生きた、矛盾だらけの人々がね、共通に付き合って時代をつくってるということになるわけね。

 当然、その時代も矛盾に満ちたものになるし、危機をはらんだものである、と。ところがね、それでも人間はなんとか生きているし、生きてきたし、時代も続いているわけでしょう? すると人間は、いつか死んで骨になっちゃうんだけど、社会や歴史というのはとりあえず連続的に続いているわけね。こんな矛盾に満ちた人間たちが、どうしてひとまず連続的につながってるのかなあってこう考えたらですよ、人々はね、その中でもどうにかこうにか、矛盾を乗り越える、とりあえず危機を克服する精神の術をね、なんとかあみだしてきたのだろう、と。伝統というのはその流れのことを指すんじゃないかって、そう考えるようになったんだね。

B:作品に対して「型」を見るとすれば、歴史や社会の中に「術」と「流れ」を見るということですね?

 うん。例えば安土桃山時代の織田信長や、その後の家康なんかが外国との緊張関係の中でどうやって成功したり失敗したりしてきたかということが、今日の参考になるし、そこには示唆(Suggestion)がある。だから「天皇制」であろうが「靖国」であろうが、お茶でもお花でも歌舞伎でも能でも作品そのものはどうでもいいわけ。ひとまずね。作品の中に込められている日本人の美意識や調和の感覚、あるいは冒険精神の在り様とかね、そういうものをいかに掴み取って、そこからどんなヒントを得て、自分としての、まあ大げさに言えば己の美意識なりを組み立てていこうかと、そういうことが伝統に触るということだと思いますね。

 さて、ここで付け加えなきゃいけないんだけど、「具体的作品はとりあえずどうでもいい」って言ったけれども、実は作品がなければね、どんなヒントも我々は受け止められないわけね。そうでしょ? 法隆寺そのものではないとしても、法隆寺という作品がそこになければ、我々はそこに込められた「型」や「流れ」のヒントすら考えられない。このことも忘れてはいけないと思います。

 それとね、「保守」ということで踏み込んで言えば、僕の保守論はこうなんだ。保守というのは先ほど言ったように、歴史の智恵に学ぶってことだよね。さあそこで「どうやって学ぶんだ?」ということになると、現在ただいまの、極めて不確実な、つまり危機に満ちた状況の中に自分を追い込んで、なおかつ自信がないにもかかわらず、そこで「やってまえ!」という感じで決断するしかないんだね。保守主義と決断主義っていうのは表裏一体です。もっと哲学的な用語で言えば一種の実存主義ですよね。

 我々の時代で保守を言うということは、昔の人のように生易しいことじゃないんですよ。奈良時代の美しい建築を見て、美しい自然に触れれば精神のバランスが保てるなんて、そんなことじゃない。

 だから僕はね、そういう実存を賭するようなことのない保守なんて少しもおもしろくないと思っている。過去の遺産に頼っている保守なんてのはクソくらえで、今、日本で「保守」って言ってるのはそんな連中ばかりだよ、やりきれないよ。

B:西部さんの著作やご発言でたびたび「家庭」ということが出てくると思いますが、それは「家族を大切にしよう」といった紋切型の道徳観とは異質なものだという印象を抱いていました。

 家庭の小さな習慣がいかに複雑で、ある意味ドラマティックなものであるか、ということだね。もっと言えば、家庭というものがおどろおどろしいものですらあるということを感じられないような人間が、アメリカを見ようが中国を見ようがグローバルがどうのとか、何一つわかってない奴だと言って間違いない。自分も含めた狭い世界の、このおどろおどろしいエネルギーなり複雑さなりを何とか感じ取れて、何とか表現することができれば、ある程度、大昔にも遠い未来にも、そして今現在で言えば、地球の反対側にも多少の洞察ができるんじゃないかということです。

 僕なんて今日ここに来る前は、五日間も家に籠もって、カミさんに鍼灸施してたんだから、まったく男としては偉大な冒険だぜ。

B:『「しあわせ」論』の中で、「生きがい」「死にがい」というテーマがありました。生きることは死を抜きには語れないにもかかわらず、今日では基本的に「死」が隔離されている状況にあると思うのですが、果たしてその中で「死」を充填するというようなことが可能なのでしょうか。

 話に入る前にその本のことなんだけど、あれ、残念ながらとても誤植の多い本なんだ。そもそもゲラを見ていないんだ。大変世話になっている版元だからあまり言えないんだけど(笑)、このことは一度明言しておきたいと思ってたから、ここで言っておきます。もしこれから読んでやろうかという方がいらしたら、そのことはご承知いただきたい。

 さて本題ね。まあその「死を感じて生を……」みたいなことはよく言われますけど、僕はそこは論理的に考えたい。僕が最初考えたのは、死ぬのは確かに恐ろしい気がするなってことで、でも次にこう考えたの。自分が永遠に生きる、死ねないとしたら、そっちの方がよっぽど恐ろしいと。どうあがいても死ねないんだよ。千年後またあなたにインタビュー受けたりしてさ、するのも大変だろうけど、される方も大変だよ(笑)。

 さて次だ。実際は死ねないということは無くて、自分は必ず死ぬと。どんな努力をしようが、どんな偉大なことを発見しようが、結局は死んじゃうのかと。そこには虚無の感じがなくはないんだね。しかしそれも論理的に考えると、「違うな」って思ったんですよ。

 例えば現在の僕は自分の親父のことをね、あるいはお袋でも誰でもいいんだけど、時々思い出すんだね。それは間違って思い出している可能性もあるけれど、そうなるとさっきの家庭の問題とも関係あるんだけど、常日頃付き合っている人たちの間に、自分が死んだ後も自分の記憶ってのは、ある程度残るんだと思うのね。そこには歪曲も偏見もあるかもしれないけど、僕なら僕の娘にある程度伝わって、その娘の記憶がさらに誰かに手渡されていく。人間に精神があるから、言語があるから、言語によって他人のことを記憶してしまう、もっと言うと理解してしまう。受け継いでしまう。そうなったら、いつか完全に僕の固有名詞が消えてしまおうが、そんなこと全然構わないと思った。

 であるならば、「まったくでたらめな、実にいやな男だった、死んでもらってほんとに嬉しい」という伝わり方もあれば、「いろいろ失敗も錯誤もあったが、まあなかなか一生懸命格闘して、良いこともやったり言ったりして死んでってくれた男だ」という伝わり方もあって、どっちを選ぶかという選択問題があった時に、僕はどう考えても後者を取りたいと思う。

 ところで今日のこのコーヒー、あなたにご馳走してもらえるんでしょう?(笑)。例えばあなたがおごってくれるコーヒーについて、僕は二つのことが言えるんですよね。

 「よくもまぁ、こんなうまくもねえこんな店、なんで選んだんですか?」とごねることもできる。人様にまともな記憶を残したくないということを選んだとしたら、それで良いのかもしれないね。あらゆる友達をなくし、女にもありつけず、息子や娘から裏切られ、職場から放逐され、どうにもなんなくなっちゃう。しかしそれで超然としていることもできず、結局のところは、他人にわかってもらいたいとなれば、比較的正しいことを、幾分お世辞や社交辞令を交えながら、多くの人はやっているわけです。

 その圧倒的な現実を知ればね、人間はヘタクソだけども、自分なりに正しいこと、良きこと、美しいことに近づきたいと思って、今この現在に言葉を繰り出し、いや言葉だけじゃない、目つきだろうが笑い声だろうが、仕種だろうがね、そういうものを刻々に選択して生きているということになるだろうと。つまり、真善美を求めないような生き方が考えられないのならば、それを遺さずに死ぬという死に方もまた考えられないのではないかと、やはりこれも「論理的」に、そうなります。「死」について言えば、死ぬべき時に死ぬっていうのが一番正しい。

B:死ぬべき時……

 だんだん困ったような顔になってるな。もう少し困らせるか(笑)。僕はね、世が世なら、間違いなく神風特攻に志願して、イノ一番に出て行って、あっけらかんと死んでたと思う。こればかりは自信がある。そのことについて、馬鹿なテレビ屋とか出版屋みたいに、「死んだ人かわいそう」とか、そんなことは絶対に言わない。これは軍国主義でもなんでもなくて、結論として、あの時代の若い男たちは、死ぬべき時に死ねた、妙に幸せな人たちだなと、僕は本気で思ってる。ここは省かないでちゃんと書いてくれよ。

 最近の若い世代がね、昔あったとかいわれている真剣な恋愛をできなくなったなんてどこかに書いてあってね。恋愛といえばG・K・チェスタトンという人が面白いこと書いてるんだけど、曰く「人間のやっていることは、全て滑稽である」と。ご飯を食べるのも滑稽なら煙草吸うのも滑稽だと。もっと言うと人間の口なんてものは滑稽の最たるもので、これで物を食べたり、煙をふかしたり、と思ったらここから言葉が出てきたり、そのうちに男女の性愛の道具として使われたり、何なんだ? こんな滑稽なものをいちいちみんな持っているなと、ここは僕の意見だけどね(笑)。

 そしてそのチェスタトンが、人間がやっていることは全て滑稽で、男女の関係なんてのもそうなんだけど、しかし「人間にとって最もやりがいのあることは例えば恋愛である」と書いてるのね。昔これを読んだときにね、このチェスタトンってのはうまいこと言うなと思って、「最もやりがいのあることが、最も滑稽である」と、まさにその通りじゃないかって。

 そのつながりで言えばね、神風特攻隊ってそうかもしれないんだ。勝ちっこねえの知ってて突っ込んでいくんですからね。「やめたら?」って言われたらそれでおしまいよ。しかしその滑稽なことが当時、最もやりがいがあることだったんですよ。明日、何かのために死なねばならぬということになったとしたらね、僕の方から言えばクレオパトラに及びもつかない人だったが、思えばこの女子を残して俺は死ぬかと思えば、いとおしくなるわけだ。たぶん向こうもそうなんですよ。たいした男じゃねえが、お国のためと称して明日死ぬんだとなればね、真剣に相手してやらなきゃと思う。さて、けっこうしゃべったかな。

B:最後の質問です。「崇高さ」という概念についても途中お話が出ましたし、「死」についてもうかがいました。そこでいわゆる「宗教」についてのお考えをうかがいたいと思います。

 僕は、人間は根源的には言葉の動物だと考えていて、今日はずっとその話をしているつもりだけど、言葉ってのはいつも矛盾をはらんでいて、それゆえ常に三択問題なのね。恋人たる俺が「愛してる」って言うか「好き」か「気に入ってる」と言うかいつも選択問題にとらわれているわけ。だとしたら、選択の基準を考えなきゃいけなくて、基準ってのはやっぱり、価値への思考ですよね。良い基準を見つけたら、また良い基準があって、永遠の作業なんだね。だから、人間の宗教心ってのは、人間の言葉の中にすでに可能性として存在していて、より上の目的を探さなければいけなくなる。より上へ上へと行くという時にね、そこらのエセ宗教者は、「おおー神様」と言い出すだろうと。

 ところが僕は「経験論」という意味での保守だから、良い基準を見つけ出すための実践には、ある種、実存的な決断まで必要だと考えている人間なんだ。そうなってくるとね、単に人間の精神が目的をめぐって、上へ上へと昇っていくだけではなくて、それが同時に経験とか感情とか、日々の生活を通じて下へ下へと降りてくるっていう通路がもうひとつないといけないわけね。露骨にいうと身体論だよ。自分の体で納得できるものをつかみたいと。宗教者はかつてそれをわかってたから、一方で仏様を拝みながら、他一方では修行をやるでしょう。苦行、難行をやる。そこにはなんというかな、崇高なるモノをのぞき見ることとね、自分の感情を掘り下げるという意味で、自分の体がね、自分の精神と折り合いがつく、つながらせるというね、両方やってるということなんだと思います。

B:本日は、ありがとうございました。


西部 邁  (Susumu Nishibe)

1939-2018年、北海道生まれ。東京大学経済学部卒。
東京大学教養学部教授を経て評論活動に入る。評論家として政治・ 経済・社会・文化と幅広い分野にわたって執筆活動を行う。雑誌『発言者』主幹、雑誌『表現者』顧問。『経済倫理学 序説』で吉野作造賞、『生まじめな戯れ』 でサントリー学芸賞、2010年『サンチョ・キホーテの旅』で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。著書に『昔、言葉は思想であった』『陥没する世界のなかでの「しあわせ」論』『友情』など多数。