『Interview Archive』は、
過去の『NewsLetter』に掲載されたインタビューです。
今回のインタビューは、2015年に行われたものです。
予めご理解のうえお楽しみください。
Sounds of the Universe
今から138億年前、まばゆい一粒の光として誕生したという宇宙。
そこに散りばめられた星のかけらから地球は生まれ、すべての生命は育まれてきた。
星のかけらを孕む私たちは皆、宇宙が奏でる壮大な音楽の一部なのだ。
今回は、宇宙創生理論に関わる「ゆらぎ」研究の第一人者である佐治晴夫先生に
身近な日常と広大な宇宙の架け橋となるお話を伺った。
宇宙を知ることは自分を知る旅であるということ、
そして、星を見るという営みが宇宙体験であるということ。
つまり、過去としか我々はかかわり合うことはできないけれど、
過去を見ることによって、未来が見えることもある。
『BOOKCLUBKAI NEWS LETTER interview 』より
B:最新刊『量子は、不確定性原理のゆりかごで、宇宙の夢をみる』を読ませていただきました。堅そうに見える理論物理学や数学のお話が、音楽や文学、詩の世界で紡がれていて、そこから伝わってくる、みずみずしいイメージがとても新鮮でした。
この本は、80歳を記念して、かなり力を入れて書きました。今までの量子力学のやさしい本というのはいい加減か、でなければ難しいかのどちらかでしたので、できる限り感覚的に訴える書き方をしたかったんですね。もともと私は芸術への憧れが非常に強い人間で、東京芸大に入りたいと漠然と憧れていましたが、お稽古もせず、黙って入れるものでもない。だから芸術に一番近いと感じていた数学科に進んだというわけです。
B:パイプオルガンに魅せられていたそうですが、どんな出会いだったのですか?
第二次世界大戦が開戦して4か月後、小学2年生の頃に東京初空襲を経験しました。私たちの年代は、そういう歴史の最後の生き証人です。戦争も子どもの目から見た戦争というのがあって、戦時下にどういう生活をし、お腹が減るというのはどういうことか、食料不足をどうやって切り抜けたか、さらに身も凍るような機銃掃射の恐ろしさなども経験しながら時代を生きたわけですよね。ですから、戦争終結から70年になる今日まで、あの第二次世界大戦というのはいったい何だったのか、平和とはいったい何なのか、心の中では、そのことがずっと尾を引いたままです。
話を戻して、その初空襲の後、父が「いずれ東京は空襲で火の海になる。その前に、学校を休んでも良いから日本には3台くらいしかないパイプオルガンの音だけは聴いておきなさい」と言いだしました。その中のひとつが東京の三越本店にあって、兄に連れられて行くと、演奏者は戦闘服を着て、足にはゲートルを巻き、鉄兜を背負い、戦闘帽を被り、弾装ベルトをしめて弾いていました。「軍艦マーチ」「海ゆかば」「空の神兵」などの軍歌を演奏している合間に、まったく雰囲気の違う音楽が流れてきました。その時、兄が耳元で囁いたんです、「バッハだよ」と。これがものすごい印象として残っていて、その頃から、いつかパイプオルガンを弾きたいという気持ちが出てきたわけです。
そんなことから、数学科があって、パイプオルガンもある立教大学に進学し、数学の勉強のかたわら、キリスト教神学、ラテン語、ヘブライ語、ギリシャ語などを学び、それからあらためて東京大学で物理を勉強することになりました。その後、東京大学物性研究所での研究生活を経て、パイプオルガンが3台もある玉川大学にご縁をいただき、パイプオルガンと礼拝堂の合鍵をつくらせていただいて初めて正式にオルガンのお稽古を始めました。その頃、天才童謡詩人、金子みすゞさんの詩が話題になりはじめていて、「見えないけれどもあるんだよ、見えないものでもあるんだよ」という内容の「星とたんぽぽ」という詩に出会い、それならば、昼間は見えない星を見せちゃおうと玉川大学に天文台をつくり、青空のキャンバスの中で、まるでダイヤモンドが燃えているかのように見える「真昼の星」を、幼稚園の園児から大学院の学生まで、休み時間やあるいは専門教科の授業の中でも、見せることができるような授業のシステムをつくりました。
実は、65歳くらいの時だったでしょうか。たまたまご縁があって、三越の方にさっきの話をしたところ、閉店後の一時間、思い出のパイプオルガンを弾く機会に恵まれたのです。初めてパイプオルガンを聴いて感動した小学生が、半世紀以上経ち、還暦も過ぎた老人になってから弾いている。現実とは思えない夢の中にいるような不思議な気分でした。限りなく音楽に憧れながら音楽家にはならなかった。だからこそ、NASA(アメリカ航空宇宙局)のボイジャー計画に参画できたわけで、人間にはいろんな挫折はあるけれども、それが挫折だったかどうかは、後になってみないとわかりません。もし私が才能に恵まれ、運よく芸大に入っていたら、物理学者としてNASAでの仕事をするということは、まずありえなかったということです。
B:1977年に打ち上げられたNASAの宇宙探査機ボイジャーにバッハの平均律第1番プレリュードを搭載しようと提案されたのは、戦時下に聴いたパイプオルガンがきっかけだったのですか?
いえ、そうではなくて、ボイジャーにバッハを選んだのは、その曲が言葉を超えた言葉だったからです。E.T. (地球外知的生命体)が雑音だと思わないようにね。言語としての情報を含むためには、数学的な規則が必要です。例えば、小鳥のジュウシマツには8つの鳴き声があり、その組み合わせによって、言語をつくっている。それと同じで、バッハの音楽の和声の並び方には、言葉の要素があるのですピアノで弾いてみましょうか?
B:ぜひお願いします。
例えば一秒間に440回振動するラの音、この440を2倍すると880。それがオクターブ上のラですね。オクターブというのは、振動数の比が1:2なのです。ドの音(1倍)を基本にすると、2倍の振動数がこれです、3倍、4倍、5倍、6倍(画面下譜例➀参照)。
つまりハ長調のドミソという音が基本になる理由は、その振動数の比が「4:5:6」。ヘ長調の基本になる和音ファ、ラ、ドも、ト長調のソ、シ、レも全部「4:5:6」なんです。
音をださないようにこれを押さえて(ドの鍵盤を音が出ないようにそっと押さえながら)
これを叩きますよ(1オクターブ下のドを短く鳴らす。すると高い方のドの音が、鍵盤を叩いていないのに、余韻のように聞こえる)。
音が鳴っているでしょう? これはどうでしょうか。(今度はソの鍵盤を、音が出ないようにそっと押さえながら2つ下のドを短く鳴らす。するとソの音が鍵盤を叩いていないのに、余韻のように響く)
鳴っていますね。つまり、ドの音の中に、これ(一オクターブ上のド)と、これ(二つ上のソ)も全部含まれているんですね。バッハの平均律にも、これとおなじような数学的規則がたくさん含まれているのです。
それと音のユニットというのもひとつの言語です。例えば、これです(画面下譜例➁参照:“1→5→1”のコードを弾きながら、あるいは学校の授業でやった“気を付け―礼―着席”の和音)。
それからもうひとつの典型的な言語は(「きよしこの夜」の最後のフレーズ“1→5→1”にアーメン終止“4→1”を加えて弾きながら)、アーメンですね。今の二つの言語を一緒にするとちょっと複雑な言葉になる(“1→4→5→1”を弾きながら)。これがバッハの平均律の中に、どういう具合に入っているのかが統計的にわかるとひとつの言語として機能する。同じ構造をしているのが、ショパンの別れの曲やワルツ。これを繰り返し展開させたのが、ベートーベンの月光ソナタの第一楽章。これも同じ構造です。
B:ありがとうございました。ジュウシマツの鳴き声のように、バッハの音楽には何かメッセージがあるのでしょうか?
まあ偶然でしょうね(一同笑)。ただそういう数学的な美しさをバッハ自身は感じていたんでしょうね。
譜例➀➁参照画像
B:ボイジャーに乗せた曲ですが、多くの演奏者の中からグレン・グールドを選んだ理由を教えてください。
ボイジャー計画に携わっていたカール・セーガンが大好きだったからです。グールドという演奏家には、独特の雰囲気がありますよね。平均律はともかく、ゴールドベルクなんか弾いた時の感じはグールド以外には出せない独特な境地でしょうね。僕はできればブラームスの「Intermezzo(間奏曲)117番」を入れたかったんですが、それを搭載したら、ボイジャーくんは地球が恋しくなって帰ってくると困るので、やめたんですね。メランコリックでほんとうに美しい曲です。
B:黄金比やフィボナッチ数列のような自然が創りだす秩序を、人が美しいと感じるのはなぜでしょうか?
私が監修をしたプラネタリウム番組『MUSICA 宇宙はなぜ美しい?』では、数学でそれを解いています。全国で上映され、一昨年の国際科学映画祭でグランプリを頂戴しました。美しい風景の映像で始まり、ピアニストと女の子の対話で構成された作品です。女の子が、「私の心はなぜ美しいものを見て感動するの?」と聞くと、ピアニストが、「じゃあ今からそれを教えてあげよう」と、ドレミファソラシドを数学的に説明し、ひまわりの種の渦巻きを方程式で表し、太陽系の動きやDNAのらせん構造の中にある数学的性質を摘出する。すると女の子はミクロからマクロまで、宇宙は共通の数式でできていることに気づき、「宇宙やきれいな景色や花を見て心がワクワクするのは、私の中に宇宙が入っているからなのね。」と気付くんですね。
B:“f分の1ゆらぎ”を心地よく感じるのも、美しさと同じように普遍的だからなのでしょうか?
ある意味では、その通りです。しかし、人は歩んできた経歴によって心地よさの源は違います。ただ、人間が心地良いと感じている状態の脳波を調べてみると、半分予測できて半分予測できないという性質を持ってゆらいでいる。これが“f分の1ゆらぎ”です。心地良いという脳波を出すには、半分予測できて半分予測できないような外部刺激を与えると、脳がその刺激に同化してきて、何となく気分が良くなるということはあります。しかし、いくらそういう要素があるからといってベートーベンやモーツァルトの曲をかけても、嫌な思い出があったら心地良くなるはずがありませんよね。しかし、自然界の現象の中には、“f分の1ゆらぎ”と言われているものがほとんど入っていますから、人間が自然の中から生まれてきたとするならば、もともと人間の遺伝子の中にそういうものに呼応するような特別な何かがあるのかもしれませんね。というところまでが科学的、それ以上のところになると少し怪しいことになりますね(笑)。
B:ご自身の意図でなく、考えや発見を思わぬところで使われてしまったという体験はありますか?
とても漫画チックなことから、アッと思うようなことに使われたことまで随分ありますよ。一般論ですが、大学の先生というのは聞きに来れば教えるけど、自分から進んで教えようということはしたがらない。しかし、僕は、呼吸は吐き出さないと吸えないように、自分で知っていることは必要があれば全部吐き出すことにしています。でないと新しいものが入ってきませんからね。それを聞く人にはいろんな人がいますから、私が言ったことを自分のいいように解釈して使われてしまった経験はあります。
B:何か対処はされるんですか?
しません。対処をするエネルギーが勿体無い。世界に対して迷惑がかかるような状態になったら問題ですけれどもね。
B:物理学者というのは先生のように皆さんロマンチストなんですか?
どうでしょう、私はロマンチストですかね? 結構、気難しいんじゃないかな(笑)。すべてではないけれど、バレエや文学、バイオリンやピアノを弾くとかそういう趣味を持っている人はわりと多いですね。おもしろいことにアメリカでは現役を退いた後に子どもたちの電話相談のボランティアや平和を訴える天文学者が多いですね。昭和40年代に東大で実施したアンケート調査では「あなたは神の存在をどう思いますか?」という問いに、一番肯定的な答えが出たのは天文学科の学生でした。昔の天文学科の学生は、暖房もない。凍てつくような寒さのドームの中で望遠鏡にかじりついて観測する。今は、コンピュータ制御の望遠鏡を別室で操作している。昔は自然との関わりが強かったから宗教感情が出たのかもしれません。
僕はどうなんだろうな……やっぱり少し変わっているかな(笑)。幼稚園から年上のおじいちゃん、おばあちゃんまで友達になれるんです。日本全国の小学校などで、特別授業をする機会が多いのですが、音楽室で休み時間にピアノを弾いていると、お猿さんの山みたいに皆集まってきて、どういうわけか子どもにはもてますね。高学年の女子児童から「先生みたいな人のお嫁さんになりたいな!」なんてラブレターをもらったことも(笑)。かわいいですね。
B:きっと先生がピュアだからですね。そこで質問なのですが、愛とは何でしょう?
愛の定義は3つあります。端的には、新約聖書『コリント人への第一の手紙』第13章第4節から8節に書かれています。1つ目は、すべてを受け入れることです。これは相手に寄り添うことで、ラテン語で「クレメンティア」と言います。2つ目は、耐えるということ。最近の若い恋人たちを見ていて、耐えることができない人が多い。恋愛関係に陥った時には、非常に楽しい反面、ある意味、非常に苦しいこともあるでしょう。愛するということは、ものすごく苦しい、それに耐えることも必要です。3つ目は、希望です。受け入れるという寛容さ、耐えるということ、すべてを望むという、この3つが愛の三原則。これは数学の論理できちんと解けるんですよ。
B:美しさや愛も科学や数学の論理で解けるとおっしゃいますが、科学的なものと科学的ではないものとの線引きはどこにあると思われますか?
そうですね、例えば先日、石川県で細野晴臣さんと講演会をした時、かつてスプーン曲げの超能力少年として一世を風靡した清田益章くんが前座を引き受けてくれて、久しぶりに再会しました。というのも、三十数年前、彼の脳波の実験に立ち会ったことがあったからです。講演会の打ち上げ会場でカレーライスとスプーンが出た時、「先生、曲げてみようか」と彼が言うんです。20人くらいが見ている中、見事、10分くらいで、破断して一方がポロリと落ちてしまった。何が起こったのでしょうね。確かにスプーンが曲がって二つに分断した(笑)。その事実は認めざるを得ない。でも、「どうして?」と聞かれた時に、今の僕には答えられない。答えられないということに耐えるのも科学者に求められる資質の一つですね。いろいろと不思議な現象がありますが、「そうだよ! 超能力だよ!」と信じて、断定してしまうのではなくて、答えが出てくるまで待つことができるかどうかがポイントだと思います。
「超能力」というのは適当な表現ではなくて、むしろ人間の「未知能力」と言い換えた方がいいのかもしれません。科学者として、わからないものはわからないまま事実をきちんと正確に見る。それが事実ならば、説明できなくても受け入れるということも科学です。理由はわからないけれどもスプーンが曲がったという事実は普遍的な観測結果なのです。
B:実験では、観察者がいることで対象の状況が変わってしまうことがあるそうですね。
それは大いにあります。かつての清田くんの検証実験では次第に成功率が下がりました。たくさんの監視カメラが付いた密室に閉じ込めて、頭には脳波測定のための端子、腕には筋電計のセンサーチップを付けて、その結果、ストレスも大きくなり、本来の力がだせなくなるのも当然です。不確定性原理に似ていますが、相手を知ろうとする働きかけが相手を変えてしまう。だから物事の観察は、多角的な視野から眺めて、結果は違っていても、そこから共通項を因数分解していかないかぎり本質は見えてこないでしょうね。
B:今の社会は分野ごとに細分化され、その影響は学問にまで及んでいることをご著書の中で指摘されています。未来を担う今後の教育の場は、どのように進んでいって欲しいと思われますか。
科学も、芸術も、所詮人間がつくりあげたものです。物理の目で見るのと、哲学の目で見るのとでは、見方がちょっと違う。例えば、二次元の座標感覚ではわからないものを、三次元の座標感覚で見るとわかることもあります。ある人がある物を見て、円形であると言う。ところが、もう一方の人は長方形であると言った時に、円形と長方形というのは明らかに違うものです。
しかし、お茶を入れるような缶を上から見れば円に見えるし、横から見れば四角に見えるわけでしょう。共通項を抽出することから真実が見えてくるということですね。ちょっと哲学的になるので、もっと理論が必要ですけれども。真実がひとつだとしても、対象をどういう風に見ているかによって違って見えても当然です。そこを因数分解して、統合して、もう少し高い立場から俯瞰できるのは人間しかいない。それは、人間が四足から二本足で立ちあがったことで脳が発達し、獲得した能力なんです。
科学、芸術、スポーツにしても多角的に俯瞰して見ることで、「人間とはいったい何か?」が見えてくるだろうと思います。そのためには、既存の伝統や風習から心をliberate(開放)して、もっと自由に、新しい考え方の枠組みをつくるリベラル・アーツ教育が必要だと思います。分野が違っても、目指しているところは案外同じです。これが中世ヨーロッパの学問の姿勢だったわけです。だから「文法」「論理」「修辞」という文系?にかかわる3学科と、
「代数」「幾何」「音楽」「天文」という理系、芸術?にかかわる4学科、合計7学科がひとつの教養基礎科目になっていました。
今はICU(国際基督教大学)がそれに近いですが、日本でもリベラル・アーツの大学が欲しいですね。県立宮城大学をつくる時に、少しでもリベラル・アーツ教育ができれば、という気持ちで仙台入りしました。看護学部では、相手の気持ちに寄り添うトレーニングは、ピアノの連弾が効果的だと考え、東京芸大出身の優秀な人を教授に呼び、さらに最初に触れる音は最高の音でなければならないとスタインウェイのピアノを2台買い、音楽教育、そして真の意味での音楽療法講座を立ち上げました。音楽大学でもないのにスタインウェイが2台ある大学はどこを探してもないでしょうね。楽しかったですね。
そして地域貢献のひとつとして近隣の施設で音楽療法の実践研究を行い、人にはその人固有のテンポがあることなどの新しい発見がありました。施設内の高齢者は、テレビのニュースなどが聞き取れません。アナウンサーのしゃべり方が健常者向きの速いテンポだからです。人には、目の動かし方や首の動き、手の動かし方にその人固有のテンポがあります。そのテンポに寄り添って話しかけながらピアノを叩いて、「これに合わせて手を叩いてみましょう」と、徐々にテンポを上げていくことで認知症の改善が見られることもわかってきました。これが寄り添うということですね。新設大学でしたから、講座も自由につくれて、私は「科学と芸術の間」という科目をつくり、仙台白百合学園のマリア聖堂の可愛らしいパイプオルガンをお借りした授業もしました。シャルトルブルーを模した青のステンドグラスがある聖堂の中で、パイプオルガンを奏でながら授業をはじめる。効果抜群で私語はゼロです。私の人生にとってかけがえのない経験でした。
その前にいた玉川大学でも、私が退職するときに、リベラル・アーツ学部ができました。小学校1年生から4年生までを初等部、小学校5年生から中学校2年生までを中等部、中学校3年生から高校3年生までを高等部にして教育する4-4-4に分けたシステムです。研究第一線をしりぞいた後は、いろいろなことをやらせて頂けて、とても幸せでしたね。それらの実践をする上で、多くの皆さんに随分お世話になっています。2011年に罹患がわかった僕のガンは極めてめずらしい悪質のガンだそうで、5年生存率の100%保証はできないと言われています。今年の1月に臓器摘出の手術を受けましたが、鬱陶しい術後後遺症を除けば、まだ元気でいられるのは、多分、まだ元気でいてくれなきゃ困りますよという人が沢山いるおかげだという気がしています。人は人によって生かされているということですね。非常にありがたいですね。教育で一番大事なのは、信じて待てるかということ。それが今の教育現場ではシステム的にできにくくなっている。だから本当にお金があったら、僕は小さくても良いから学校をつくりたいですね。どうですかね(笑)。
B:ぜひ入学したいです。お話を伺っていると、科学も愛なのだと思います。
そうですね。愛という言葉は、非常に使い古されてきているから、ややもすると、「ん?」という感じになるけれども、先ほどお話しした新約聖書で語られる「愛」のように、ちょっと離れて、愛とは何かを論理の立場から考えてみると、当然、愛なくしては人間って生存できないことが明快にでてきます。イスラム国の人も、北朝鮮の上層部の人たちも、愛と平和と豊かさが欲しいのです。ですから、拉致の問題も、相手を責めるだけでは解決しないでしょう。フランシスコの「平和の祈り」にあるように、「赦すことによって赦される」という相互関係が必要です。誰だって、平和や豊かな生活が欲しいわけでしょう? どこかでボタンをかけ違うと、こういった悲劇に発展してしまう。人間が起こしたことだから、それを是正する鍵は必ずあると思いますね。
B:宇宙の95%を占めると言われる暗黒物質や「真昼の星」など、五感で感じられなくても、存在しているものがあるのだと知るたびに、意識が広がっていくようです。人間が宇宙的な視点をもって日々を生きることができたら、環境問題やあらゆる規模の争いまで、違った未来がひらけていくような気がします。
そう思います。そういった意味からすれば、宇宙飛行士の役割とは、まさにその体験を語ることにあると思います。私と会話を交わした宇宙飛行士の大半が、地球に戻ってきた時に考え方が変わったと言っています。私たちは、同じように宇宙に行くことはできないけれども、星を見ることによって、そこに宇宙的な空間と時間の厚みを感じとることはできます。我々が今見ているお月様は1秒前の姿だし、オリオンは700年前の光。未来ではなくて、過去から現在までの時間の厚みを、今、この目が見ている。それは700光年、1000光年の空間の厚みでもあるのですから、それを意識することで、広大無辺な宇宙の旅をすることができる。それが、本来の星を見る行為だと思います。
実は、漫画家の松本零士さんが理事長をされている“日本宇宙少年団”という団体の理事を発足当時から務めさせていただいていますが、その活動の一環として、子供たちをNASAのスペースシャトルの打ち上げに連れて行ったり、屋久島にカナダのオジブエ族の長老とNASAのボイジャー計画の責任者だったブルース・マレー博士をお呼びして、世界から子どもを集めてお話し会をやったことがあります。
B:どんなお話をされたのですか?
たくさんの興味ある対話ができましたが、まずは、宇宙を知ることは自分を知る旅であるということ、そして、星を見るという営みが宇宙体験であるということ。つまり、過去としか我々はかかわり合うことはできないけれど、過去を見ることによって、未来が見えることもある。こと座のM57という銀河を望遠鏡で見せて、「これは、40億年くらい後に、太陽が膨張して、地球を飲み込んでいく光景の先取りです」と説明することもできる。未来が見えてくるということですね。過去も未来もそれらのすべてが星空の中に見えているんですね。未来ってまだわからないから不安かもしれないけれども、ある意味では懐かしいものかもしれない。子どもたちに宇宙を語る時は、星の大きさやどういう原子核反応が起こっているかという知識も必要だけれども、私たちは宇宙のひとかけらとして生きているのだという視点も重要です。宗教に頼らず、生命とは何かを客観的に説明できるのも科学の役割じゃないかと思うんですよね。
以前、インドネシアの大学で講演した時に、受講生の中には宗教の異なるたくさんの学生たちがいました。イスラム教の人、仏教の人、座席の場所が違うんですよね。ところが、講演が終わってテキストノートにサインを求めて来た時は、みんなごちゃまぜになってやってきた。科学には、国境がないのです。そういう体験を通して、科学の力が一般社会に浸透していけば、世の中は少しは変わるのかもしれません。原発問題も、われわれは、原発でつくられた電気を使っていることで、その責任の一部を背負っているという意識から出発すべきでしょう。そこをとばして、原発反対のデモをやったとしても、単なるお祭り騒ぎに終わってしまう。そこが、一番怖いところです。物事を、えこひいきすることなく、客観的に評価できるだけの見識をもちたいですね。それも教育が担う大きな課題でしょう。
B:もしかしたら人間の意識というのは、光より速かったり、同じような速さで伝わるのかなと考えたことがあります。そもそも意識はエネルギーなのでしょうか。
意識を論じるのは非常に難しい問題で、その議論をするには、まず定義をする必要がありますね。意識はエネルギーかと言われた時には、エネルギーの定義が必要になります。そこからお話をはじめなければ、科学にはならない。問題は、一般的に言われている意識と科学がまだ同じ土俵に上がっていないということですね。ですから、意識が光より速いという議論は、意味をもたなくなってしまいます。でも、ある小学校での4年生の授業で全く同じ話が出たことがあります。ロケットや光の話をして、「世の中で一番速いものは何だろう?」という問いかけをした時に、一人の女の子がぼそっと「あたしの想いです」と言ったんですね。「どうして?」と聞いたら、その子は大好きなおばあちゃんが亡くなったらしくて、「おばあちゃんのことを想うと、すぐここにいるような気がするから」と言うんですね。感覚的には、子どもならではのとても面白い発想です。では、意識というものがどのような速さをもつかという話になりますが、意識というものの速さを測定するには、意識の発信者と受信者がいて、その間のやりとりの時間差を測定しなければなりません。つまり、あなたが、あることを発信した時に、こちらにどのような影響が伝わったかが実験結果として出ていれば、意識の速さは測定可能でしょうが、「いつ」その情報が発信され受信されたかを測定するのは、難しい問題です。それはそれとして、仮に意識が光の速さを超えることになると、今の三次元の世界では不可能ですから、今、われわれが住んでいる世界の構造自体が崩壊します。光の速さが存在する速度の中での最高のリミットであるということにおいて、縦、横、高さがある三次元の世界なのです。しかし、スプーン曲げが事実だとすれば意識にもエネルギーがあり、だとすれば、現世は、ある高次元世界の一部だと考えれば、光速を超える存在の否定はできません。
B:宗教や精神世界を扱った書籍には、「誰しもの中に内なる神が宿っている」とするものも少なくありません。宇宙のはじまりの微弱な音がどこでも同じ強さで観測されることから、「あなたがた一人ひとりが宇宙の中心なのです」と言われる先生の言葉に共通項があるように感じます。
数学者としては「神とは何か」という定義から始めなければなりませんね(一同笑)。ひとつの定義は、「人の力を借りないで、何もないところから自らをつくりあげることができるものを神と定義する」という、これは数学の定義になります。いわゆる数学的な神の存在証明です。ケンブリッジ大学の車椅子の天才といわれているホーキング博士が、かつて「宇宙ができるのに神は必要ない」と言ったことが、バチカンでは大問題になったことがあります。しかし、これは、神を否定しているのではなくて、「ゆらぎ」さえあれば、神の力なしで宇宙はできるといっているだけで、神の否定ではありません。
しかし、その「ゆらぎ」はなぜあるのか、なぜ、宇宙はこんなにもうまくできているのか、というところにまで踏み込んだ場合、そこに神の存在を持ち込んだとしても、科学はそれを拒否する知識をいまだ手にいれていません。
カトリックでは、神は絶対です。しかし、科学の立場からいえば、偶像的な神は存在せず、かりにその像があったとしても、それは「どこかへの」入口であって、その向こう側に何かがあり、それを神と呼ぶというのであれば、差し支えないということです。
旧約聖書の『出エジプト記』に存在する神のことが書かれていますね。それは、絶対に姿を現すことのない神の姿です。キリスト教だけではなく、日本の創世神話でも、神は姿を現すことはしません。神は、燃え盛る火や黒い雲の中から、声(音)で語りかけてくる。「ユダヤの人を逃がしなさい」という神の声を聞いたモーセが、「あなたの名前を教えてください」と神に訊ねる場面があったでしょう。その時の神の答えは「あるであろうように、あるもの」でした。神は心の中に存在するものなのでしょうね。
B:神は、自分の似姿から人間をつくったと、旧約聖書には書かれていますね。
旧約聖書の創世神話では、アダムからイブができたとされていますが、すべては女性からはじまった、という事実を受け入れたくない男性原理から生まれたのでしょう。もともとはすべて女性。たとえばマリア。人間の場合、受精後6週目までは全部女性で、7週目に胎児の性決定遺伝子SRYが目を覚ますと、子宮と卵巣をつくるための栄養が行くミュラー管をなくして、男性機能をつくるウォルフ管だけにします。ところが、女性は男性機能をもつ器官も温存しています。男性だけが女性器官を消すことで男性になる。男性の身体の構造には欠陥があるわけです。男性の平均寿命が女性より短いのもそのためのようです。
アダムとはヘブライ語でいうと、「ザ・泥」と言う意味です。土で人の形をつくり、その土の一部を取って、女性をつくることによって、「ザ・土」は男性になり、つくられたものは女性になった。だから、男性と女性は同時に生まれたと考えることもできます。時代によって女性崇拝、男性崇拝といろいろ変転していますが、生物学的にいえば、すべての基本は女性です。女性は男性器官を温存していて、それは、生殖に利用するためのパイプとは別に尿を排出するためのパイプとして転用しています。男性の場合は、その区別をなくしてしまった。いうなれば、男性の身体構造は生物学的には欠陥構造なのです。男性はもともと女性には敵わないんですね。男女共同参画の議論は、そこから始めるべきです(一同笑)。
男性は力もあるしなんとか優位に立ちたいと努力してきたんでしょうね。宗教の歴史を見ると、男性原理と女性原理が入れ替わりながら、その時代にあった神をつくりあげてきたかのように見えます。しかし、女性の立場から言えば、もし、女性だけで、子孫をつくるとすれば、それは単なるコピーをつくるだけになって、大きな問題が生じる。コピーだとすべての性質が同じになってしまいますから、極端な場合、一人が風邪をひいたら、皆、風邪をひいてしまう。そこで、似てはいるけれども、別の要素を入れましょうということで、女性が男性をつくったんです。23番目の遺伝子XXから、サイコロを振るようにして、XをYに変えてXYにして男性をつくったわけです。これはコイン投げで裏か表かという確率事象になりますから、起こりうるのはほぼ半分ずつ、つまり、男女の数は、ほぼ同じだということになります。
ところで、世界にはたくさんの宗教があります。しかし、それらの宗教の根幹をなす教義を書き出して因数分解してみると、共通項がでてきます。
それを一言で言ってしまえば、「相手に寄り添う」、「相手を傷つけない」ということが見えてきます。これが宗教の基本です。前者は、ラテン語でいえば「クレメンティア」、後者は、サンスクリット語で言うところの「アヒムサ」です。「アヒムサ」については、インド哲学の大家、中村元先生がよくおっしゃっていましたね。
B:映画『コンタクト』の制作協力をされましたが、先生が宇宙人とコンタクトできるとしたら何を聞きたいですか?
「あなたたちは、どうして戦争を避けながら生きのびることができたのですか?」ですね。映画の中で主演のジョディ・フォスターさんの言葉としても登場します。それにしても、宇宙人と逢ったとか、宇宙人の国に行ったとか言う人もいますので、これはちょっと困りますね(笑)。想像とか幻想の世界ではそういうこともあり得るとは思いますが、科学の立場からは、いまだ、宇宙人さんとのコンタクトはとれていません。
B:『「わかる」ことは「かわる」こと』と本のタイトルにもなっていますが、先生にとって「これがわかって、一番自分が変わった」ということは何かありますか?
たくさんあります。しかし、その中でも一番大きなことは、本当の幸せとは、相手あってのことで、「あなたに出逢えてよかったです」と言われることでしょうね。それは、人間を含め、万物は相互依存なしでは生きられない、存在しえないというこの世界の構造に関する科学的見解が基礎になっています。その一方では、生きるためには、利己的な行動も無視できません。お腹が減って食べ物がない時に、人のものまで取って食べたいという欲求は誰にでもある。それはそれとして、空腹を共に分け合う、いいかえれば、「私とあなた」と言う関係を、「あなたあっての私」にひっくり返すことができたとき、そこから幸せが始まると思います。
ダライ・ラマ14世と三回ほど行なった「科学者と法王との対話」の中でも、一番嬉しいことは、相手に喜んでもらうこと以外にはない、という話題が何度もでていました。自分一人で美味しいものを食べても、その時は満足するかもしれませんが、それを超える満足感は、自分の料理を、とてもおいしい、と相手が喜んでくれることでしょう。この自他の関係を宇宙の構造から考えれば、「自分は自分からできているのではない」という認識です。
たとえていえば、水は水からできているのではなくて、水ではない水素と酸素からできていますね。それと同じように、私は私からできているのではなくて、私の話を聞いてくださる皆さんとか、空気とか、いろいろなものがあるからこそ、私が、私でいられるということでしょう。なんとなく宗教的な響きがあるかもしれませんが、これは科学的事実を基礎にした科学者としての見解です。私の生は、私を応援してくださる皆さんの生あってのものですし、逆に、私の生が、みなさんの生を支えているとしたら、これ以上の幸せはない、と感じています。とくに、悪性度の高いガンに罹患して以来、今まで以上に、たくさんの方々から心配や励ましをいただき、この「相互依存」の実感をかみしめています。病はけっして歓迎すべきものではありませんが、病になったからこそ、初めて学ぶことができることもあるのですね。すべてに感謝です。
B:本日はどうもありがとうございました。
佐治晴夫 (Haruo Saji)
1935年東京生まれ。理論物理学者。理学博士。日本文藝家協会会員。大阪音楽大学大学院客員教授。元NASA客員研究官。東京大学物性研究所、玉川大学、県立宮城大学教授などを経て、2004年より2013年まで鈴鹿短期大学学長を務める。現在、同短大名誉学長。NASAのボイジャー計画に関与し、“E.T.”(地球外知的生命体)との遭遇を想定して搭載されたレコードにバッハの音楽作品を収録することを提案。“f分の1ゆらぎ”の理論を家電製品などに取り入れるプロジェクトリーダーを務めた。宇宙研究の成果を平和教育のひとつとして位置づけるリベラル・アーツ教育の実践を行い、その一環としてピアノ、パイプオルガンを自ら弾いて、全国の学校で授業を続けている。主な著書に『宇宙の不思議』『夢みる科学』『おそらに はてはあるの?』『二十世紀の忘れもの』『からだは星からできている』『14歳のための時間論』『14歳のための物理学』『女性を宇宙は最初につくった』『「わかる」ことは「かわる」こと』『THE ANSWERS すべての答えは宇宙にある!』『量子は、不確定性原理のゆりかごで、宇宙の夢をみる』など多数。
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量子は、不確定性原理のゆりかごで、宇宙の夢をみる
佐治晴夫
トランスビュー
1760円(税込)
予備知識の無い者にとって、物理の数式は理解が難しいうえに、原子や電子の姿は小さく、目で見ることができない。しかし私達は自らの感覚を通して、物理の世界の存在を実はすでに知っている。宇宙物理学者である佐治博士が本書で目指したのは、宇宙の始まりや姿を理解する上で欠かせない量子論の基礎、そして不確定性原理が感覚的に理解できること。一線を退いた後、パイプオルガンを弾き始めたという博士の紡ぐ言葉は、極めてソリッドなはずの数字の世界を描きながらとても瑞々しく、音楽や文学、詩の世界から解りやすく例をひきながら、不確定性原理が示す小さな世界のゆらぎが、広大な宇宙に及ぶ豊かさに満ちていること、人間もまたその一部であることを教えてくれる。
14歳のための物理学
佐治晴夫
春秋社
1870円(税込)
ごく小さな原子から広大な宇宙まで、なぜか似通っているこの世界の構造を明らかにする学問が物理学であり、その基本である力学だ。「空はなぜ落ちてこないのだろう?」「心とはなにか?」など、子どもが疑問に思うような事の向こう側にこそ、宇宙の本質が隠されているのだという。かつての14歳である大人にも、思考する大切さを伝えてくれる。
14歳のための時間論
佐治晴夫
春秋社
1870円(税込)
中学生以上の読者を想定し、「時間のふしぎ」について、科学の基礎的発想をもとに、やさしく、分かりやすく解説。読み進むうち、20世紀以後のさまざまな分野に大きな影響を与えた「相対性理論」の前提や、あらゆる人にとっての「生きている今」の意味を再確認することができる。
14歳のための宇宙授業
相対論と量子論のはなし
佐治晴夫
春秋社
1980円(税込)
相対性理論と量子論を引き合いに、私たちの身近な日常と広大な宇宙との架け橋を作る。宇宙の誕生やその広がり、時間と空間、素粒子といった現代宇宙論を、自然観や芸術的創造性、そして人間の営みと絡めて、お馴染みの優しく温かみのある語り口で論じていく。宇宙を構成するすべてのものがうまく調和して私たちは存在している。一方で、宇宙の形成には私たちの存在も必要である。つまり、人間は宇宙の一部でありながら、宇宙の中心でもあるのだ。決して、難解な理論や数式が羅列しているような科学の教科書ではない。宇宙の法則に基づき、世界に美と喜びを見出すための手引書である。
宇宙のカケラ
物理学者、般若心経を語る
佐治晴夫
毎日新聞出版
1760円(税込)
この世に現れているものはすべて幻であり、どんな法則もない。ただあるのは、何もないことを覚った観自在菩薩智慧である。本書は、多くの経典の中で最も親しまれている般若心経の美しさを、物理学者が優しく解説。わずか二百六十二文字に秘められた、広大無辺な宇宙交響曲とは。