『Interview Archive』は、
過去の『Newsletter』に掲載されたインタビューです。
今回のインタビューは、2010年に行われたものです。
予めご理解のうえお楽しみください。

INTERVIEW ARCHIVE #47

地球のネイティブであるために

作家・編集者 北山耕平

雑誌の黄金時代を生きた若き編集者は、単身、アメリカへ渡り、ネイティブ・アメリカンとの決定的な出会いを経験する。帰国して取り掛かったのは、日本列島を歩き、歴史に学び、「日本」という絨毯をめくりあげ、太古から続くスピリットに直に触れようとする生き方のレッスンだった。

「日本」が巨大なReservation(保護区)だとすれば、そこでスポイルされてしまったわれわれが失ったもの、回復しなければならないものとはいったいなにか。環太平洋の先住民族とそのスピリットを探求しつづける、北山耕平氏にお話をうかがった。


北山さんというと「ネイティブ・アメリカン」と連想する人も多いと思うのですが、まず、彼らとの出会いについて教えてください。

1976年当時、手伝っていた雑誌の編集長に「アメリカへ行きたい」と言ったら、くれたのがロサンゼルス行きのチケットで、だから最初は西海岸に行きました。

そして、渡米して1年目の後半かな。「俺はもしかして、沙漠が好きなんじゃないか?」と気がついたんだ。沙漠に足しげく通うようになって、時にはキャンプしたり、寝袋で寝ちゃったり。最初のうちは、人なんてぜんぜんいないし、まったくの無音だし、それこそ素っ裸で走り回ることだってできるし、「これがwildernessってヤツか」と思ったね。日本にいると沙漠って体験できないでしょう。湿気が無いということはどういうことかというと、風景がかすむことなく視力さえ良ければ、クッキリと何十km先でも見通せるということなんだ。

圧倒的な無音と巨大な夕陽、朝日。地球が生まれたままの姿がそこにある。

日本人の「旅行」の観念ではね、例えばコヨーテに出会う機会なんて、まずないでしょう。それが、沙漠ではそうやってさすらう存在と出会うことがあるんだね。通っているうちに、だんだん、どういう動物が棲んでいるか、植生はどうなっているのか、わかってくる。

そしてある時、理解したんだ。

「どうやら沙漠にも、昔から住んでいる人がいる」。

それが「ネイティブ・アメリカン」だったわけですね?

そう。忘れもしない、29歳の時。2月26日に北米最大の沙漠で皆既日食があるというので、北の沙漠に行く途中で、ネバダ州のカーリンという町に寄ったんだな。2.26だからよく憶えていて、その前日だから25日。カフェテリアにコーヒーを飲みに行った。そこで、「あんたもあのおかしなインディアンに会いに来たのか」と憎まれ口を叩かれながら(笑)、店のおばさんがローリングサンダーの家を教えてくれた。最初に会ったのは、ローリングサンダ一の奥さんのほうだった。

ローリングサンダーはメディスンマンであり、スピリチュアル・リーダーだったから、当時はボブ・ディランやグレイトフル・デッドのメンバー、ビートニクの作家や詩人たちが、こぞって彼を訪ねていた。ローリングサンダーからは、それこそ何から何まで学んで、ぼくの生き方がそこでガラッと変わってしまった。

ネイティブ・アメリカンと運命的に出会ったということは、その後のお仕事の方向性を決めたということにもなりますよね?

もちろんね。普通、観光ビザだと3ヶ月とか6ヶ月とかしか居られないわけ。ジャーナリストビザなら、1年ごとに5回更新できる。つまり、フルで5年間は居られる。その頃ちょうど、4年目の書き換えが迫っていたんだよね。ローリングサンダーに、ビザが切れそうなんだと言ったら、「白人は許可しないのに住んでる」、そして、「お前は好きなだけここにいていい」と。この発言は、それが言えるだけのものを彼は持っていたということだよね。ただ「お前は好きなだけここにいていいんだ」と言えるだけの、内的な力を持っていたというかさ。それは役人が「あと2ヶ月で切れますよ」と言う言葉よりも、はるかにぼくにとっては、リアリティがあったわけ。「そういわれりゃ、そうだよな。ここは元々インディアンの土地だから、好きなだけ居ていいと、そのインディアンの人が言ってくれるのであれば、ずっと居られるんだ」と。だからその時以来、国家観とか価値観みたいなものの勉強から始まって、全領域にわたって勉強せざるをえなかったことがいっぱいあった。それが自分にとってはすごく参考になったのかなと思ってる。

ローリングサンダーはぼくが会った頃、それまで期待を持っていた60年代に新しい価値観を持って登場したとされる白人の若者たちに失望し始めていた。そんな彼の気持ちをアップさせる存在として日本人の子たちがいたんだね。ぼくは、アメリカ・インディアンの本当の姿が、アメリカ政府のプロパガンダや西部劇で見聞きしているものとはまったく違うものだということを日本の若者たちにきちんと伝える仕事(ワーク)がしたいと思うようになった。だから自分の本には、ぼくがカーリンのカフェテリアでローリングサンダーの家を教えてもらったように、本に書いてある通りに歩けば、家に辿り着くように書きました。実際、本を読んで訪ねていった子がたくさんいたのはとても良かったし、ローリングサンダーも、海を越えて若い子が訪ねてくるのをとても喜んでいた。

現在、アメリカ合衆国に居住しているインディアンの方たちは、北山さんがお会いになったローリングサンダーらの世代と、大きく隔たってしまったと考えていいのでしょうか?

まず1850年頃から1950年頃までの100年間、アメリカという国家は、インディアンの子どもを親元から12年間、引き離し、アメリカ人化教育を強制した。子どもたちは長い髪を切られ、自分たちの言葉を使えば鞭で打たれたり、口の中を石鹸で洗われたりして、徹底的に英語とアメリカ人としての生き方を叩き込まれた。だから、12年後に親元に戻された時は、親子で互いの言語がわからないという悲劇が生まれていたんだ。それはまさに文化的なジェノサイド(殺戮)だよ。

もっと歴史を遡れば、19世紀末にゴーストダンス運動という一種の新興宗教のような抵抗運動が起こった時期があった。ゴーストダンスを踊ると、シャーマニックなトランス状態に入って、そのまま倒れて向こう側の世界に行って、それで帰ってくるような人が出てきた。その人たちはその「向こう側」で見た、別の世界の姿を、みんなに語って聞かせるんだね。スー族やシャイアン族といった、西部劇によく出てくる平原のインディアンは、特に徹底抗戦をしていたんだけど、ゴーストダンス運動は、最終的に非暴力の運動だった。争いはよくない。争うのではなく、踊るだけでいいんだというところまで辿り着く。

ところが、こうして非暴力に達し、子どもも老人も一緒に踊っていたインディアンを、アメリカの騎兵隊が虐殺してしまうという事件が起こる。ウンデッド・ニーの虐殺と呼ばれる事件だけど、アメリカ政府はこれをもってすべて、ゴーストダンス運動は死滅させた、と解釈したんだね。

ところが新しい地球のよみがえりを希求するゴーストダンス運動の教えは、その後も確実に受け継がれていく。「虹の戦士」と呼ばれる再生の予言もそうだし、国際環境保護団体グリーンピースの船の名前が「虹の戦士」だ。

100年間のアメリカ人化政策の「成果」として、親子で言語が通じないというのは、たいへんショッキングです。

ぼくは言葉はとても重要だと思っている。50年代から70年代のある時期まで、アメリカ人化教育を最後まで受けなかった人たちの中に、英語であって英語でないような言葉で、さまざまな概念を言い表わしてる人がいたの。ローリングサンダーがまさにそうで、短い言葉でものすごくかっこいいことをしゃべる。聞いていて心からうっとりしてしまうようなね。そして「こんな英語があったとは!」と感嘆して、口ーリングサンダーの許を訪ねてきたのが、先に言ったボブ・ディランであり、ゲーリー・スナイダー、アレン・ギンズバーグといったビートニクの文学者や詩人たちだった。そういう言葉で表現できる人の多くは、残念ながら80年代から90年代くらいまでに亡くなってしまったけど、ぼくが会っただけでもそんな人が、4~5人はいた。日本人にだって実はいるよ。オノ・ヨーコさんがまさにそうだった。ヨーコさんの英語はそういう力を持っている。

言葉というのはさ、その使い方によって、力のあり方を逆転させることができるわけ。人間の内的なスピリチュアリティの在り方によって、言葉を自分から発しているんだけど、相手を奴隷にではなく自由に解放するような使い方や表現ができる。

それと言葉について重要なことを言っておくと、ネイティブ・アメリカンの言語とぼくらのつかってる日本語は、母音の数がほぼ同じで、英語の倍くらいある。言葉というのは、「音」が持っている意味があるし、母音が表現する豊かさというものがあるわけだから、その意味で、インディアンと、今日、みんなが「日本人」と呼んでいる我々とは、非常に近いといえる。どちらも英語を話す時は第2外国語だしね。

ネイティブであるというのは、輪の中に自分の場所をちゃんと持っていて、
輪をつないでいる他のすべての命とつながっているということ。

北山さんのこれまでのお仕事、言い続けてこられたことの中で最も重要なキーワードは「ネイティブ」だと思います。あらためてお聞きしますが、「ネイティブである」ということは、どういうことだとお考えでしょうか?

ネイティブであるというのは、輸の中に自分の場所をちゃんと持っていて、輪をつないでいる他のすべての命とつながっているということ。そのすべての生命の中には、動物も植物も人も鉱物も、あらゆるものがあるということだよね。

すべてがひとつにつながっていて、その中のワンピースが自分であるということ。全部が自分じゃなくて、自分はそのほんの一部であるという認識。ネイティブ・アメリカンの在り方がまさにそうだし、アイヌの勉強をしたって、みんな同じ世界観を持っているよね。原初の人間としての在り方って、そういうものだったと思う。

神だって、その輪っかの中の一部だよね。そして人間には、スピリチュアルなレベルと肉体的なレベルと両方であらゆることを体験していくっていう作業が多分必要で、どっちかだけで体験して終わらせちゃうと、本来の在り方からどんどん遠く離れて行っちゃう。

そもそも土地に対してリスペクトするという感覚から、残念ながら我々は遠く隔たってしまったように思います。

ぼくはネイティブ・アメリカンと出会い、日本に帰ってきて、「日本列島の自然はなんて汚れているんだろう」と思ったのね。建前では、四季のある美しい国とか言っているけど、人工衛星から、つまり宇宙から見ると日本の周りだけ本当に汚かった。

これはアメリカ人も同じで、まず、土地というものに対する態度が最悪だよね。「俺の土地から温泉が出た」なんて喜んでいるけど、それは地球、あるいは日本列島なのであって、おまえの土地などというものはない。

レイム・ディアーというメディスンマンは、「国家などというものは絨毯のようなものだ」と言っていたね。アメリカは「亀の島」と言われたけど、その上に、ハイウェイだ、原発だとさまざまに「アメリカ」を形作る巨大建築物を載せた絨毯が乗っかっているだけだと。その絨毯を捲き上げようというのが「ゴーストダンス運動」だったんだね。日本も同じで、本当は「日本人」なんていないんだよ。いるのは地球という星の「ネイティブ」だけなんだ。

インディアンの土地に対する考え方、例えば農業についてはどのように考えていらっしゃいますか?

インディアンって、なんとなく狩猟の人たちというイメージがあるかもしれないけれど、大半が農耕民族だからね。採集と農耕、どちらもやると考えていい。ただ、われわれの概念で農業として捉えているものを彼らにやらせるのはとても屈辱的なことで、インディアンは必要なものを必要なだけしか作らない。たくさん作って金に換えたりしないの。農業というのは実は最大の自然破壊でもあるから、そんなことをインディアンがやるわけがない。ホビ族の農業なんて、沙漠に穴を開けて、種を置くだけだからね。経験知で、どこに水が流れているかを知っている。地球から食べ物をいただき、地球のケアもするような行為だ。

必要なものを必要なだけ育てる、環境のことを知った上での農業なんだ。金儲けの農業じゃない。自分たちの母親に、化学肥料やブルドーザーを使うことはできないと彼らは言うの。そういう地球に優しい農業を作っていかなければいけないんだね。

日本は、水田でとれる米のことを「白いお米こそ日本のもの」なんて言って、他の「外来のもの」を差別したりしているけど、米だってあきらかに元々外来のものだからね。そういうことに対する検証が、ぜんぜんなされていない。

農業が歴史的に果たしてきた役割には、ネガティブな部分とポジティブな部分の両方があるけど、そろそろ変わらなければいけない時期に来ているのは間違いないね。縄文人は栗の林をケアしていたけど、その「ケアする」という部分がすっぽり脱落してしまった。自然のことをよく理解した、アグリカルチャーの原初的な農業、スピリチュアルな農業に向かわなくちゃいけないよね。地球のケアと、そこからいただくもののバランスをとらなきゃいけない。

だからさ、本当に土地や地球のことを理解して、さらに自分が育てている作物のことが好きで好きでたまらない人が育てた野菜って、おいしいんだよ。にんじんのことが好きで好きで、きちんと理解して、ケアして作った人のにんじんは、ほんとにうまいよ。

物事にはフィジカルとスピリチュアル、常にこの二つがあって、
どちらか一方だけではダメなんだ。

にんじんのお話が出ましたが、「食」についてはどうお考えですか?

なるべく正しいものを食べるようにしているけれど、そんなにシビアに考える必要はないと思う。『自然のレッスン』を書く時、ボストンの久司先生のファウンデーションにいたことがあって、だからあれは久司道夫先生に捧げた本でもあるんだけど、ある日、夜中に久司先生が部屋に来られて、「これからメキシコ料理、食べにいきませんか?」って(笑)。

ただ、「人間は食べたものになる」というのがぼくの持論でもある。にんじんを食べたらにんじんの意識になるわけ。食事というのはとてもスピリチュアルな行為で、例えばハワイなんかでは料理人ってメディスンマンみたいなもので、医者に匹敵するくらい重要な職業なの。食事ではとにかく、自分が口に入れるものが、どうやって育てられてきたかをちゃんと理解していることが大切だと思う。ローリングサンダーも、「体に良くないもの、毒を毒だと知って食べるなら対処の仕方がある。けれど知らずに食べてしまうと大変だ」と言っていたな。

例えば鳥が鶏肉というものになる過程。誰がその鳥を殺して、誰が血を洗って、誰がカッティングして、誰がラップをかけたのか。命としてあったものをいただく時に、そういう記憶が全部入っていくんだね。食べものに対する尊敬の気持ちを失わないこと。物事にはフィジカルとスピチリュアル、常にこの二つがあって、どちらか一方だけではダメなんだ。

ネイティブであるとはどういうことかというお話、土地や地球のケアのお話、そして農業についてうかがってきました。そうした原初の人間のあり方や、大いなるスピリットのようなものから現在の我々の生活はあまりに遠ざかり、あまりに起伏に乏しいものになっているように思えます。そうした我々には、なにかしらのイニシエーションというか、「儀式」的な視点や行為が必要なのでしょうか?

まず、儀式というものが、何か特別の日に行われるもの、という考えが、インディアンの観点からすると間違いだね。日曜日はがんばって教会でお祈りします、でも月曜から土曜までは好き勝手します、というんじゃ、そんな生活がスピリチュアルな生き方であるはずがない。ローリングサンダーは、1日24時間をすべて儀式にしなくてはならないと言っている。それは歩くなら歩く、という行為に全部の意識を張っていれば、それがすなわち儀式だということだね。朝、目が覚めて太陽を見てから、夜眠るまでが儀式だという意識を持ちたいね。

北山さんはTwitter(現X)をやられていて、毎日たくさんツイートされていますが、文明やテクノロジーが、地球上の「ネイティブ」の部分を破壊してしまうかもしれない、という可能性についてはどうお考えですか?

その懸念は持って当然だね。確かにわれわれは文明に対して自覚的であり、注意深くあるべきだ。でも、ぼくは例えばインターネットがあってとても良かったと思ってるの。自分はメディアやテクノロジーは新しいモノ好きで、パソコン通信もインターネットも、中央から離れたところで仕事がしたかったから、早い時期からやっていました。ちなみに、伊豆半島で最初にFAXを導入した人間だからね(笑)。

インターネットについては、これはけっこうびっくりする人が多いのだけど、今、インディアンは各部族ごとにほぼ100%、ホームページを持っているわけ。知らなかったでしょう? インディアンというのはそれまで自分たちの声を世界に伝える媒体なんて持ったことがない、ずっと声を奪われてきた人たちだからね。例外的にチェロキー族だけがチェロキー語の新聞を持っていたくらいで。

それが今、自分たちの部族内でどんなことが起きているか、世界中に発信できるわけ。これはやはり、画期的なことなんだよ。

そうすると、メディアやテクノロジーに対するリテラシーをしっかり持ちつつ、積極的にそれを活用していきたいということでしょうか?

そうだね。インターネットの英語の中から、また新たな魅力的な表現が生まれるかもしれない。日本人が担ってもいいよね。そもそも日本語は語彙が豊かな言葉なんだから。ぼくは『ネイティブ・タイム』という本を書いたけど、これは紀元前200万年の昔から西暦2000年まで、日本列島とその周辺の出来事を先住民の側に立って記述したものだ。1000ページもの厚さがある。改訂は今も続いていて、今ではあれ、倍の量があるんだ。だから生きているあいだにもう1回増補改訂版を出したくて、今度はデジタル出版でもいいと思っている。まもなくiPadが出るけど、日本列島と自分のつながりを知るために旅をしながら、iPadなどで読んでもらうなんていいかもね。その時に必要な地図やら場所のデータにアクセスできるわけだしね。

そうした文明やテクノロジーの進化にもポジティブな一面がある一方で、人間は愚かな行為にも使用してきました。アメリカ大陸のネイティブたちの間には、人類や地球に対してさまざまな予言がありますが、それについてはどういう捉え方をされていますか?

「予言は変わりうる」というのが、ネイティブの予言の大原則です。予言というのはね、「今」に働きかけているものだから、つまりは未来を変えるためにあるのであって、終わらせるためにあるんじゃないとぼくは思っている。世界は、終わらないと思うよ、ぼくは。生き続けなきゃいけないしね、生きてる人は。スピリット自体はずっとつながってるわけでさ、その歴史のはじまりから、生き続けてるものはあるわけ。

だから予言を警告と解釈することもできるし、自分のこれまでの生き方を改める機会と捉えることもできる。もちろん、われわれの地球に対する取り扱い方が誤った結果、洪水や津波などが起こる、ということはあるし、自然ときちんとコミュニケーションが取れているような、感覚が研ぎ澄まされている人たちのところには、それこそ、耳元で「逃げろ」とささやくようなメッセージはやってくるのだと思う。それは、自然界と自分の関係の持ち方次第だよね。さっき言ったように、24時間が儀式になれば、あらゆる環境の中で出逢うあらゆるものは、自分に対するメッセージを運んできているわけだよ。

我々はもともと日本列島にいたインディアンであり、地球のネイティブなんだという意識、
すべての命はつながっているんだ

いろいろうかがって来ましたが、これからの北山さんは、どこに向かっていくのでしょう?

実感として、最近はずいぶんと若い人たちが、ぼくの本を読んでくれたり、話を聞きにきてくれたりするようになりました。ネイティブとして生きる、ということについてずっと思考し続けてきた結果が少しは出ているのかもしれないと思う。でも「日本」という国家は、まだまだかなり差別の強い国で、だいたい天皇家が「韓国とゆかりがある」と発言しただけでゲシュタルトが震えちゃう人がいるくらいだから、そんな「日本」という絨毯を捲き上げて、じかに「日本列島」に触る、そこにずっと昔から続いているスピリットに触る努力をしなければいけないと思う。

はっきりしているのは、たかだか1200年前くらいに成立した「日本」なんて短い射程じゃなくて、古モンゴロイドと新モンゴロイドがミックスしてできあがった人たちがどうやら日本列島には多いということ、つまり我々はそもそもインディアンである、という認識というか自覚なんだ。我々はもともと日本列島にいたインディアンであり、地球のネイティブなんだという意識、すべての命はつながっているんだという意識を次世代へ確実に伝えるために、TwitterもiPadも駆使して、コミュニケートし続けていきたいと思っています。

日本のなかを動けば動く程、歴史で何があったのか知らないといけないと痛感するね。今、自分がどこにいるのか、その場所を確認する意味での歴史が必要なんだよ、我々には。そういう歴史って学校では教わらない。インディアンの人たちは、毎冬のようにお年寄りがそういう話をみんなでしてさ、こういう形でこの世界ははじまって、今こうなったんだっていう話をするんだよね。話をした時に、歴史はそこで生まれてる。何万年前の歴史であれ、なんであれ、話をしてる現場で具現化し生き続けるんだ。

「お前の国には1200年しか歴史がないのか」って言われるんじゃなくて、「ここには数万年前から歴史があって、最初のスピリットはここにあって、それがこういう風に生きて、ここにつながってるんだ」ということを話せなければ、屈辱的でしょ。それが天岩戸の話で止まっちゃうような、いわゆる日本的な神話の話じゃなくて、もっと地球とダイレクトにつながってる歴史を我々は持っていないと、「日本人」に見られちゃうじゃない(笑)。って言い方はおかしいか。日本人である必要なんかないのよ、ここにいたら。

私たちが向かうべき未来のためには、「日本の歴史」ではなく「日本列島の歴史」を学ぶことが重要なのですね?

日本列島というものに直接触れると、日本列島の上に敷かれてる絨毯の下にあるものが見えてくるんじゃないかって、ぼくは思うから。それがちょっとでも見えてくれば、ここに元々あって無くなっちゃったもの、例えば、オオカミが消えちゃったとかさ、熊が絶滅に瀕してるとかさ、そういうことがもっとリアルに体験できる。それを取り返すことができるんであれば、例えば熊が出たと、銃を持って追いかけまわして撃ち殺しちゃうみたいな世界じゃなくて、まったく新しいこの国の自然とのつきあいかたを次の世代に伝えられるかもしれないって思う。

もう1200年かそれ以上、本当の日本の姿っていうのは見えてないんだよ。本当の日本が見たい、日本列島が見たいって思う部分があるよね。たぶんそういうのを見ようと思った時、例えば今までは、「ええじゃないか」運動みたいに、何百年かに1回、革命的な運動が日本で起こったかもしれないけれど、それが次は、インターネットの上かもしれないじゃない?

すべての物事、生きとし生けるものは大きな円環を描いている、ということを知り、日本列島なら日本列島という土地について具体的に学び(ヨコ軸)、歴史を学び(タテ軸)、今自分がどこにいるのかという、座標軸を見据えること。すべてが円環を描き、つながっているのだから、すべてがすべてに影響を与え合うんだね。我々が電気のある生活を享受しているという事実と、電力産業を支えるウラニウムの採掘が、先住民の土地から不当に奪われているという事実とは、密接に関係している。ネガティブな意味でだけど、これも円環だ。そういうことも知っていないと、我々は未来に進めないんだよ。

時代を変えていくのは我々である。今ここに生きている人たち以外にないわけであって、その人たちがどういう意識を持つかによって未来は選択できるって思うし、ローリングサンダーもそれに近いことを言っていたと思う。

未来はぼくたち次第なんだ。

どうもありがとうございました。

プロフィール

北山耕平
Kohei Kitayama

1949-2026年 神奈川県生まれ。作家、翻訳者、編集者。大学在学中から雑誌『宝島』、『ポパイ』などの編集に携わり、その後アメリカに渡り、ネイティブ・アメリカンに決定的な影響を受ける。以降、彼らの精神や生活を次世代に伝え、同時に日本列島のスピリットを掘り返す活動を続けている。主な著書、編訳書に『自然のレッスン』『虹の戦士』(太田出版)、『ネイティブ・タイム』(地湧社)、『ローリング・サンダー』(平河出版社)、『地球のレッスン』(筑摩書房)など多数。


関連書籍

ネイティブ・タイム
先住民の目で見た母なる島々の歴史

北山耕平 / 地湧社
5280円(税込)

現代から紀元前200万年にまで遡り、抑圧されつづけた先住民族の視点から、歴史を捉え直した壮大な日本列島史。人々を分裂させる「国」 や「民族」という境界線とは何なのか? 私たちの奥底に眠るネイティブ・スピリットを目覚めさせ、「日本人」から「地球に生きる人」へと意識を転換させる。

地球のレッスン

北山耕平 / 筑摩書房
968円(税込)

あらゆるものに境界線を引き、自然の法則から離れてしまった私たちが、ふたたび母なる地球とのつながりを取り戻すための「地球の優しい歩き方」。この大地の上に生まれたものは皆、同じ星に生きるネイティブなのだと気づかされる。


自然のレッスン

北山耕平 / 太田出版
1320円(税込)

田舎に行かなくても、街で自然に生きることができる。「こころのレッスン」「からだのレッスン」「食べもののレッスン」の3部からなる普段の生活の中ですぐに始められるシンプルな実践法。都会に生きていても、自然の恩恵を受けとり、ありのままに元気に生きていくための魂の処方箋。


虹の戦士
Warriors of the Rainbow ウォリアーズ・オブ・ザ・レインボー 

北山耕平 翻案 / 太田出版
1760円(税込)

「地球が病んで 動物たちが 姿を消しはじめるとき まさにそのとき みんなを救うために 虹の戦士たちが あらわれる」。文字のない時代からネイティブ・アメリカンのあいだで語り継がれてきた聖なる教えを下敷きに1962年に出版された作者不明の物語。私たちの心の奥底に眠るネイティブ・スピリットを目覚めさせ、母なる地球との絆を取り戻す道を伝える。世界中で大きな影響を与えつづけるロングセラーのポケット版が新登場。


すべてのひとに石がひつよう

バード・ベイラー 著、ピーター・パーナル 画、北山耕平 訳 / 河出書房新社
2090円(税込)

「あなたは、自分の石を持っていますか?」。1974年に刊行され、世代を超えて読みつがれてきた名著の新装版。石は、生きている小さな地球。自分で見つけて、いつまでも永遠に、大切にできる石とめぐり会うための10のルールを教えてくれる。自分の石を見つけた時、なぜ「すべてのひとに石がひつよう」なのかが、わかるのかもしれない。


DVD BOOK ホピの予言
浄化の時代から、もうひとつの未来へ


製作:宮田雪 監督、登場人物 トーマス・バンヤッケ、デビット・マニャンギ、デニス・バンクス 他 / ランド・アンド・ライフ
4400円(税込)

ホピの人々。彼らに伝わる石板には、二度の大戦を含めたグレイト・スピリットからの予言が記されていた。1986年公開のドキュメンタリー映画が、クリーンアップデジタル版として復活。混乱の時代から、調和と平和へ向かうために私たちは何をすればいいのか。今もなお核開発や地下資源の採掘を通じて、植民地支配の暴力にさらされ続けるホピの人々が伝える平和へのメッセージは、意外なほどにあたたかく、力強い。ブックレットには宮田監督と交流のあった漫画家水木しげるがホピの村を訪れた際の紀行文「精霊の呼び声」や、北山耕平翻訳によるホピ平和宣言が収録されている。


スペクテイター Spectator
Vol.37 北山耕平

エディトリアル・デパートメント 編 / 幻冬舎
1047円(税込)

『ワンダーランド』『宝島』『POPEYE』『写楽』など、若者雑誌の編集を多数手がけ、書き手としても多くのファンを魅了してきた、稀代の編集者・作家・ストーリーテラー。そんな北山耕平さんが過去に雑誌に発表してきた原稿を再録掲載、当時の関係者の証言を交えながら、偉大な仕事の全貌に迫った特集です。五年前に患った大病から奇蹟の生還を果たし、新作の執筆に意欲を燃やされている北山さんとの対話も収録。YES, KK IS BACK!! 完全保存版です。 ―出版社紹介より