老子
中国、春秋時代の思想家。道家の祖。史記によれば、姓は李、名は耳、字は伯陽。楚の苦県・曲仁里(江南省)の人。周の守蔵室(図書室)の書記官。
もっともすばらしい人間は
水のようだと喩えることができる
水はあらゆるものに潤いを与えて
手柄を誇らず また
人々のもっとも嫌う低い所にとどまり
それゆえ道(タオ)にそっくりだと言えるのである
水は低い所へ流れて
その心は深く
万物は水によって生命を得るのである
水はよく澄んでよく他者を映し
あるいは他者をよく洗い清め
器しだいでどんな形にもなり
四季の時節をはずすことがない
もっともすばらしい人間は
水のような美徳を備えているために
咎めがないのである
– 王明 校訂・訳 –
『老子(全)』より
さて、「老子」である。
経歴を書くのに、これほどやっかいな人物はいない。なにしろ、本人が無名性を重んじてそれを標榜しているぐらいだから、数々の伝説は残っているものの、その全貌は永遠の謎である。しかし、スピリチュアルな思想の流れを見る上で、どうしてもはずせない人物であることもまた確か。<タオ>という他に類を見ない思想は、現代に至るまで大きな影響を与え続けている。
老子唯一の著書とされる『道徳経』は、世界各国の言語に翻訳され、多くの人にインスピレーションを与えてきた。
老子とは何者なのか? ここでは、実像には到底至らないことを前提の上で、いくつかの史実をつなぎ合わせてみたい。
司馬遷の『史記』によれば、姓は李、名は耳、字は<たん>または伯陽。河南省の出身であるとされている。時は、紀元前4~5世紀頃、周の守蔵室(図書室)の書記官として長く勤めたが、道と徳を修め、名声を上げないことを信条としていたという。今で言えば、国立図書館の司書として、目立たず静かに、独自の思考を極めながら暮らしていたという感じだろうか。
「老子」という言葉は、もともと「老先生」を意味する普通名詞だったことから、匿名を望んだ著者の筆名であったと考えられている。それ以外にも、複数の思想家の集合体だという説、架空の人物である説などがある。いずれにしても、その思想がまとめられて一冊の『道徳経』となったのは、紀元前3世紀前半の頃と思われる。
『史記』の中にはエピソードとして、孔子が老子に教えを受けた時の様子が描かれている。老子の元へ若き日の孔子が訪れ、「礼」について訊ねた。老子は、「君が慕う上古の聖人もその身はおろか骨さえ朽ち果てて、今はただむなしい言葉を残すだけである。『君子はすぐれた徳を身の内深く備えて、外貌は愚かなように見える』と聞くが、君の高慢な多欲と、もったいぶった態度と迷いの念を取り去りなさい」と説教をして追い返した。後に孔子は、弟子たちに「老子はつかみどころがなく、龍のような人だ」と語る。しかし、孔子より後代の人だという説もあり、『孔子家語』には、別の伝説も残されている。また、老子を始祖とする道家の系譜は漢代に入って作られたものでもあり、このあたりの伝承の真偽は、やはり謎である。
それでもまた『史記』に戻って、晩年の姿を追ってみよう。長らく周に勤めた老子であったが、いつまでも変わらない君主の在り方、行き過ぎた人の欲望や文明の弊害を憂い、周の衰運を見定めて去ることを決断した。周の境にある関所にさしかかると、老子の正体を見抜いた関令(関守)の尹喜が、隠退の前に教訓を書き残すように要請する。そこで老子は道と徳に関する上下2篇5千数百字からなる『道徳経』を著して与えた。かくて老子は関所を後にするが、その後、彼の消息を知る者は誰もいない。老子は道を修めて寿を養ったおかげで、160歳~200余歳の長寿を保ったと言う。
これらの伝説は、様々な虚構の修正から成り立っている。だから、本来、老子の実像を見極めるためには、その著書『道徳教』に因るしかないのかもしれない。そしてこの稀代の書は、固有名詞を全く持たない思想書なのだ。
老子の思想が他と大きく異なるのは、その出発点にあると言えるのではないだろうか? 世を変え、人を変えようとすれば、その反動として常に矛盾が生じる。しかし、タオの思想からは決して矛盾が生じない。誰にも否定しようがない、という圧倒的な強みを持っている。何かをとらえようとすれば、それはすでに道ではない、と彼は言う。すなわち、老子の実像自体をとらえる意味など何もない、ということに帰着してしまうのは、タオがタオたる所以だからかもしれない。
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