Meeting With Remarkable People #79

ル・コルビュジエ


1887-1965

 20世紀を代表する建築家として、フランク・ロイド・ライトとともに、ル・コルビュジエの名をあげる人は多い。
反逆児として批判を浴びながら、斬新な近代建築を世界にもたらした、
スイス生まれの建築家、ル・コルビュジエの足跡をたどってみたい。


1887年、スイスの山あいの町、ラ・ショー=ド=フォンで彼は生まれた。本名は、シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ。父は時計盤エナメル職人、母は音楽教師だった。家業を継ぐため、少年時代から地元の装飾美術学校で彫金を学んでいたが、高等科の校長レプラトニエの影響で、次第に、家具や建築の世界にも強い関心を持つようになる。19歳の時、校長の薦めで、地元の職人指導のもと、処女作ファレ邸を設計。この仕事で得た報酬で、北イタリア、ウィーン、ドイツ、パリなどを旅行した。その後も機会あるごとに、世界各地の建築を見て回り、独自の建築観を築いていった。

そもそも彼は、専門的な建築教育を受けていない。まず画家として出発したが、建築への好奇心は止まず、1908年、21歳の時、パリに住む鉄筋コンクリートの巨匠、オーギュスト・ペレの事務所でしばらく働く。また、23歳の時には、ドイツの建築家ベーレンスの事務所にも、短期間、籍を置いた。そして、1914年、27歳の時、鉄筋コンクリートによる住宅建設方法、「ドミノシステム」を発表。1920年、33歳の時、他のアーティストと共に、雑誌『エスプリ・ヌーヴォー』を創刊した。この頃から、ル・コルビュジエというペンネームを使う。

1922年、35歳の時、従弟のピエール・ジャンヌレとアトリエを構えた。翌年、スイス・レマン湖畔に、年老いた両親のために「小さな家」を設計。これは、18坪という小さい空間の中に彼のアイデアを結集したもので、居間、浴室、洗面所などが連続し、家全体を回遊できるようになっている。屋上には50センチの土を入れたエコ住宅でもあった。彼が近代建築の5原則としてあげたのは、ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面。その実例として、後に代表作「サヴォア邸」を作り上げた。

1925年、38歳の時、パリ万国博覧会で、装飾のないモダニズム建築のエスプリ・ヌーヴォー館を担当。また同年、パリ市街を超高層ビルで建て替えようという都市改造案を発表した。採用はされなかったが、この発想は、以後、各国の都市建築に大きな影響を与えたと言われている。ル・コルビュジエは、CIAM(近代建築国際会議)の中心メンバーとしても活躍した。後半生は、マルセイユの集合住宅「ユニテ・ダビタシオン」、ロシアの「ロンシャン礼拝堂」、アルジェ都市計画、インドの「チャンディーガル高等法院」など、世界各地の都市建築に関わった。

私生活では、絵を描くのが大好きで、パリのアトリエでは、午前中は油絵に専念し、午後に設計の仕事をしたという。1929年、42歳の時、フランス市民権を取得し、イヴォンヌ・ガリと結婚。情熱的な彼女と暮らすようになり、ル・コルビュジエの作風は、曲線的なデザインを持つようになったと言われている。1965年、77歳の時、南フランスのカップ・マルタンで、水泳中に死去した。

「住宅は住むための機械である。」この彼の有名な言葉に象徴されるように、彼は、建築に伝統から切り離された合理性を求め、単純な構成で快適さを得る、独創的な作品を生み出した。しかし、その思想は常に物議をかもし、批判も多かった。現在は、新たな視点で彼の評価が高まっているようである。20世紀のモダニズム建築提唱者として知られる彼だが、ひょっとしたら、彼のビジョンは、21世紀に照準が合っていたと言えるのかもしれない。


関連書籍


小さな家

ル・コルビュジエ / 集文社

1650円(税込)

本書は、スイス生まれの建築家ル・コルビュジエが書いた白い小さな本だ。実はこれ、両親のために建てた家である。レマン湖畔、広さ60平米程のミニマムな空間。どのように計画し、そして30年後の姿はどうなったか。何枚もの写真やデッサンの記録。


建築をめざして

ル・コルビュジエ / 鹿島出版会

2100円(税込)

「住宅は住むための機械だ」。このあまりにも有名な言葉を含む本書は、ル・コルビュジエの都市・建築に対する新時代の到来を告げる宣言であり、その問題提起は都市・建築を学ぶすべての人々にとって今なお、あまりにも刺激的で示唆的である。 ―出版社紹介より


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