ソクラテス
ギリシア・アテナイの哲人。反芻的対話を用いて、倫理の研究に生涯を捧げた。
「無知の自覚」こそ真の知恵であると説く。教説はプラトンらに叙述された。公開裁判の結果、死刑を処せられた。
諸君、死を脱れることは困難ではない、むしろ悪を脱れることこそ遥かに困難なのである。
それは死よりも疾く駆けるのだから。
『ソクラテスの弁明 クリトン』より
西洋哲学史において欠くことのできない人物、ソクラテス。「真理」の探究にすべてを捧げた、真のソフィスト。 ソクラテスの生涯には、確固たるメッセージがある。現代人はそのエッセンスに今こそ触れるべきかもしれない。
ソクラテスの出世の正確な記録は存在しない。ペルシア戦争の終末期に生まれたことは確かで、 研究家の間で一致している見解は紀元前470年頃。彫刻家であったと伝えられる父と産婆の母のもと、アテナイのアロペケ区に誕生したと言われる。
激動の時代の中で少年期を過ごした彼には、ある種の使命感と不屈の信念が芽生えていった。青年期のソクラテスは、数多くのエピソードを残している。父親の仕事を受け継いでいたという説や、恋愛問題、同性愛であったという噂も存在するが、事実に基づく記述は少なく、真実は闇の中だ。
20歳になった彼は、自然科学の研究に関心を持った。しかし、その学問体系の細部に満足がいかず、森羅万象の生成や消滅について、独自の思索を開始する。その途中で、「精神が万物の原因である」という、アナクサゴラスのヌース(精神)説に感化されたが、最終的には、安易な言論であるという結論に達し、ますます独自の方法論に傾いていった。それは、ロゴス(言論)による、「弁証法」に結実する。
戦争は少しの平和を挟み、絶えず続いていた。彼は、祖国のために三度ほど従軍している。ソクラテスが結婚したのは中年になってからだ。妻クサンティッペは悪妻として有名。2人のあいだには3人の子どもがあったという。
ソクラテスは、自らをフィロソフォス(愛知者)と呼び、自身の活動をフィロソフィア(愛知活動)と呼んだ。時には、これが新しい認識を生み出す手法であることから、母の職業に例え「産婆術」とも称した。
街頭や公園などで対話、問答は繰り返された。 友人カイレポンがもたらしたアポロンの神託により、ソクラテスは、「無知の知」「無知の自覚」を獲得する。「何も知らないということを知っている」という智恵。シンプルに見えるが、誰もが到達できるものではなかった。
ソクラテスは、当時賢人と呼ばれていた人々を次々に訪ねた。しかし彼のこの行動は、相手が「知っていると言っていることを、実は知らないのだ」、ということを暴くことになった。相手は論破され、恥をかかされたとして、ソクラテスを憎むことも多かった。
60代に入り、ソクラテスは多くの老若男女を集め、個性的なサークルを形成した。この時期に、青年プラトンとの邂逅を果たす。世に著作を残していない彼の業績を知るには、プラトンやクセノフォンが綴った文献に頼るしかない。一方で、アリストパネスが喜劇『雲』で揶揄した彼の姿が広まったことで、それが当時の一般像となっていった。
ペロポネソス戦争終結から間もない、紀元前339年、70歳の彼は、メレトスという青年に告訴される。青年の背後には、黒幕である政治家とソフィスト達がいた。「国家の認める神々を否定し、青年に害を与える」。その罪状の裏に隠されたものは、知恵なき者の嫉妬だ。
アテナイから離れ、刑を逃れることもできたが、彼は自説を曲げたり、反省したりすることを決してせず、真っ向から自身の弁明を行った。その結果、死刑の宣告を受ける。彼は自ら毒ニンジンの杯をあおり、刑死することを選んだ。
弁証法の確立、無知の知という姿勢は、たしかにソクラテスの偉大さを証明するものだが、ソクラテスが最も重視した概念は、よい生き方としての徳(アレテー)だった。最小限の物質で、自由な生活を送り、快楽から身をひき、自制心を失わず、「知」に忠実に生きたソクラテス。これからの未来に再びソクラテスのような人間を見つけ、守ること。それが人類に残された、大きな仕事のひとつかもしれない。
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