ウィルヘルム・ライヒ
オーストリア生まれの精神分析家。
フロイトの精神分析とマルクス主義を統合し、
性を肯定する独自の理論を展開。
後に、オルゴン(生命エネルギー)を研究した。
「狂人」的扱いを受ける人物は、世界にとって一種の振り子のような役割を果たしているのかもしれない。固定化された通念を壊し、次に進むための動きを導き出すためには、時には過剰なぐらいの言動が必要となることもあるからだ。性と文化の革命家と言われるライヒも、その一人と言えるだろう。
ウィルヘルム・ライヒは、1897年、オーストリアに生まれた。父は厳格で権威主義的なユダヤ人だった。13歳の時、母が自殺。その原因は、母と彼の家庭教師との性行為を目撃したライヒが、父に告げたからだと言われている。その後を追うようにして、父も自殺に近い形で病死。幼い頃から、性に対して非常に強い関心を示していたライヒだが、母を自殺させた罪悪感と共に、その根本には、支配的な父によって常に母が抑圧されていた背景があったことなどを直感している。
1919年、21歳の時、ライヒは精神分析に出会う。ウィーン大学の法学部から医学部に移っていた彼にとって、全ての人間は「性欲」(リビドー)に支配されていると言うフロイトとの出会いは衝撃的だった。すでに精神分析の大家となっていたフロイトは、ライヒのずばぬけた才能を見抜き、22歳の若者に精神分析の実践を許している。ライヒもまた、フロイトを父のように慕い、その知識を貪欲に吸収した。その親密な関係に対して、年輩の弟子達から嫉妬を受けるほどだった。
23歳の時、同じ医学部の学生と最初の結婚をしたが、オーガズムの理論を追求していた彼は、その時に応じて、様々な女性達と関係を持ち続けた。ライヒの時代を先駆ける才能と、愛と冷酷さと創造性を合わせ持った人格は、一生を通じて常に周囲の人々をカオスの渦に巻き込んでいったようだ。
1926年、28歳の時に書かれた『オーガズムの機能』は、ライヒの業績を語る上ではずすことはできない。健康なオーガズム能力を持った人間は、全身の不随意筋が反応すること、心理的なブロックが筋肉を固めることによって生じる「鎧」の存在など、心と体の相互作用に着目した。社会適応を重視した性格形成、性を社会的抑圧から解放し、健康なオーガズムの体験能力を獲得することこそ健康の基盤である、とする性理論が、現代の性教育、心理療法、ボディワーク、フェミニズムなどに繋がる一石を投じたことは確かだ。
精神分析学者としても精力的な活動をこなしてきたライヒだが、30代の頃から受難が始まる。フロイト派からの排斥、ナチスの台頭、結婚生活の破綻。だが、ライヒのもう一つの偉業として、1933年に『ファシズムの大衆心理』が書かれた。しかし時代は、ヒットラーの扇動活動がいかに人々の抑圧された性と関係しているかを見抜いた彼を排除した。ライヒは、マルクス主義を信奉し、共産主義者としても積極的に活動していたが、1933年にドイツ共産党から、ついで1934年に国際精神分析学会から除名され、ストックホルムやオスロを経て、1939年、42歳の時、アメリカに亡命した。
その後のライヒの人生は、マッド・サイエンティストとしての評価を後押しするかのようなものだった。アメリカの一部の性解放運動家から、カリスマとして祭り上げられる一方で、オルゴン・エネルギーと名づける宇宙エネルギーの存在を信じ、その研究に熱中した。彼の作った「オルゴン・ボックス」は、全ての性障害が治ると告知された。これがアメリカの薬事法違反に問われた。ライヒは裁判中、法廷侮辱罪で投獄され、妄想性精神病との診断を受ける。そして、1957年11月、60歳で獄死。死因は心臓麻痺であると書かれていた。
ライヒの一生を俯瞰する時、人が「狂気」と呼ぶものを考えずにはいられない。狂気の時代に、正気を生きたライヒ。周囲の人々を困惑させ続けたライヒ。表舞台から退けられたライヒの一生とは、いったい何だったのだろうか?
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