Meeting With Remarkable People #40

聖徳太子

574 - 622

「和を以て、貴としとなす」という、
日本初の憲法を定め、「日出る処の天子」として、
世界にその名を位置づけた人物。
後の日本に多くの精神的遺産を遺した。


 国の王でもなく、教祖でもなく、それでもなお、日本の長い歴史の中で、最も多くの尊敬を集めてきた聖人、それが聖徳太子だ。「和を以て、貴としとなす」という、日本初の憲法を定め、「日出る処の天子」として、世界にその名を位置づけた人。多くの謎に包まれる聖徳太子とは、いかなる人物だったのか。

 5世紀、日本は飛鳥の地に大和朝廷を築き、天皇を中心とする、新しい時代を迎えていた。後の用明天皇の后、穴穂部間人皇后は、西方の救世観世音菩薩が現れる不思議な夢を見た。そして、574年、馬屋の前で産み落としたのが、後の聖徳太子、厩戸皇子(うまやどのみこ)である。その顔にはすでに貴人の相が現れ、その身からは絶えず芳香が放たれたという。

 彼は幼い頃から、常人ならざる能力を持っていた。生後4ヶ月で言葉をあやつり、2歳の時には東の空にむかい、手を合わせ「南無仏」と唱える仕草をし、それは7歳まで続いた。11歳の時には、36人の語る内容を一語として聞きもらさず、すべて反復することができたという。その年、父である用明天皇が即位。しかし、病弱だった父は、たった2年でこの世を去る。豪族の勢力は、仏教帰依を反対する物部氏、仏教を擁護する蘇我氏に二分されていた。

後を継いだ祟峻天皇は、この争いに巻き込まれ、殺害される。その後には、女性ながら信望の厚かった推古天皇が着く。推古天皇は、自らを象徴的な立場に置き、厩戸皇子へ摂政になることを嘆願、彼は固辞したものの、ついにはそれを受けた。こうして、推古天皇、厩戸皇子、蘇我馬子による、新体制が誕生した。聖徳太子、19歳の時である。

 蘇我氏と皇子は、仏教の普及を開始する。高句麗から仏僧を迎え、27歳の時には、斑鳩宮を建立。政治の基調に仏教を採用した。603年、29歳の時には冠位十二階、翌年には、日本初の憲法十七条を制定。理想の国家を築くための道徳的規範を説く。

 後に広まった伝説では、聖徳太子は未来を透視する力を持ち、しばしば夢殿で瞑想状態に入り、仏神と自在に交流しながら、施政を行ったと言われている。また、自らの前世は中国の仏僧であり、仏法の理を日本に知らしめるために転生したと言う。

 また、その知見は尋常ならざるものがあり、仏教に限らず、神道、老荘思想、儒教、風水・易など、そのすべてを習得、そこから生まれたエッセンスを、日本という国に注入していった。

 607年、33歳の時、小野妹子を遣隋使として、中国に派遣した。この時、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」という文書を、時の皇帝に送った。また、妹子は聖徳太子の命により、法華経を持ち帰った。同年、世界最古の木造建築物である、法隆寺を建立。(670年に火事で焼失、後に再建された。)

 40歳前後から、彼は現世を厭い、浄土への帰還に思いを馳せるようになる。本来、彼は仏教者であり、血なまぐさい権力抗争に野心を燃やす人ではなかった。しかし、日本という国の未来を考えた時、果たさなければならない使命があると、摂政としての運命を引き受けたと考えられる。聖徳太子の象徴とも言える、弥勒菩薩半跏思惟像の、右手を頬のあたりに当て思考にふける姿は、彼の深い悲哀、英知、慈悲の心を表しているのかもしれない。

 622年、48歳の時、死を予知した太子は、沐浴し、清い衣服をまとい、斑鳩宮で静かに息をひきとった。その亡骸はいつまでも、かぐわしい芳香を漂わせていたという。

 聖徳太子が日本に遺した精神の遺産は、後々まで力を持つ。密教、真言、禅などの仏教、神道、修験道、儒教に至るまで、聖徳太子を聖人として扱う宗派は多い。日本の釈迦、観音の生まれ変わり、未来を予見する預言者。彼は、日本の未来に、いったい何を見たのだろうか。


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聖徳太子の本
日出処天子の転生と未来予言
ブックスエソテリカ 第20号
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1320円(税込)

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