『Interview Archive』は、
過去の『NewsLetter』に掲載されたインタビューです。
今回のインタビューは、2010年に行われたものです。
予めご理解のうえお楽しみください。

Interview Archive #28

やさしい つながり やがて……

島薗進

あたかも統合失調症に陥ったかのように見える現代社会。
戦争や経済制裁による解決法は、
統合失調症患者に対する薬物療法のようだ。
個々に散らばる点と点が、やさしくつながり合ったとき、
そこにはどんな世界が広がるのだろうか。

スピリチュアリティ、精神病理学、宗教学などの境界を飛び越え、
それぞれの時代に生きる人々の悩みや苦しみ、
リアリティがどこにあるのかを探究しつづけてきた
島薗進氏にお話をうかがった。


B:島薗さんは、近代日本の宗教史ばかりでなく、「ニューエイジ」や「精神世界」と呼ばれる領域を探求するなど、幅広いフィールドで活動を続けておられます。精神世界を学んでいる人たちにとって、島薗さんの著書は、非常に役に立つ可能性があると感じましたが、研究は、どのような学問だと考えたらいいでしょうか?

 近代日本の宗教をタテに、つまり時間軸を遡ると、それだけで100年、200年の歴史があります。その中には仏教や神道ばかりでなく、新宗教も含まれます。いっぽうヨコに空間軸を拡大すれば、アメリカやアジア、ヨーロッパの同時代の世界の宗教に関心を持ち続けています。また、かつては「宗教」と「スピリチュアリティ」は対立関係にあったり、反撥しあったりしていましたが、人が生きるということのリアリティを突き詰めていくと、そこには共通項があることもわかってきましたので、その意味で「スピリチュアリティ」にも深い関心をもって接してきました。私はかつて著作に「生きる力の源」という言い方で書いたことがありますが、そういうものを人々がどこから得ているのか、つまり、苦しみ、悲しみ、悩みというものと人がどう向き合っているかということを、それぞれの時代や地域や文化的背景に即して、その表れ方を調査し、分析してきました。

B:お父様が著名な精神科医、お祖父様も内科医で、ご自身も医学部に進まれたわけですが、そこから宗教学に転じておられます。その時のお気持ちや葛藤など、お聞かせください。

 父が精神科医でしたので、その影響で私も同じ道を進もうと、漠然と考えていました。もっとも、「漠然と」とは言ってもそれなりの感触はあって、医学というのは、科学の中では人間と接点の多い学問ですし、そもそも臨床という行為もある。社会から離れた、書斎や象牙の塔でやる学問をしたくなかった私にとって、そこは良かったんです。しかし今の医学は考え方が生物学的で、モノを扱うように人間を扱う傾向が強いですね。精神医学も、薬物中心の医療になってきました。そういうことがだんだんわかってきたと同時に、当時は学生運動が非常に盛んな時代で、私も少なからずコミットしました。東大紛争はそもそも医学部で起こったんです。当時、通称「赤レンガ」と呼ばれるものがありまして(注:正式名称は「東京大学病院精神神経科病棟」)、ここは占拠・自主管理の場所でした。ここでは精神疾患の患者を閉じ込めることをせず、自由に開放する試みがなされていました。このグループは東大内で叛乱を起こし、東大医学部精神科を乗っ取り、しかしやがてつぶされていくんですが、当時のこうした運動の動機にはスピリチュアリティの世界に近づいていくような要素もあり、私もそれに影響され、惹かれました。生意気そのものですが、だいたい医学部の先生は、いばってはいるけど人の気持ちはわからないなどと考えていた(笑)。他方、反戦運動などに近づいていくと、声高なアジテーションを語っていても「内面が空っぽなクセに、偉そうなことばかり言っている」という自己嫌悪におそわれました。そんなことがあって、科学主義の方向に反対する人たちに共鳴したんですが、文学部へ行くと「まともに学問するならまず語学をやれ」と言われるわけです。ギリシャ語をはじめ、何ヶ国語もやって、古典が読めなきゃいけないとか。それもイヤだった(笑)。
 もっと社会に出て、人を相手にする学問がしたい。その過程で自分の内面も鍛えたい。人間のリアリティに基礎を置き、一緒に生きていく、だけどちょっと距離も置いて学問をやれるという、そういう場所を探していたんです。宗教学にはそういう雰囲気がありました。

B:そうして宗教学に進まれて、宗教はもちろん、人間の悩みや苦しみ、悲しみなど、生きていくうえで不可避な根本部分を人がどう克服しようとしているかを探るために、フィールドワークをされていくわけですね?

 最初は、折口信夫を研究していました。しかし折口の時代に生きていたフォークロアのようなものは、だんだん過去のものになり、当時すでに昔の村のような共同体はもうあまり残っていない。それで天理教や金光教といった、いまを生きている人為的な共同体を調査したいという気持ちがありました。いちばん親しみを持って教会に通ったことがあるのは金光教でしょうか。そうした人たちと触れたのは良い勉強になりましたし、今でも宗教界の人と接することは多く、そこから得るものも大きいと思っています。
 医学と宗教学のあいだでまだ揺れていた頃はフロイトを勉強し、心理療法的なものに興味があったんですが、当時は「臨床心理士」という資格もはっきりしなかった時代で、相手の悩みに即して自分も成長する、誰かと触れながら相手から学ぶ場所を探していた私にとっては、宗教学のフィールドワークのほうが魅力的だったということかもしれません。

B:しかし今でこそ「宗教学」というと学問の一分野として認知されていますが、当時は偏見などもあったのではないでしょうか?

 もちろん偏見を持つ人はいたでしょうが、それよりも70年代後半~80年代前半にかけて、たとえば柳田國男ブームがあったんですね。それは、近代化のマイナス面が見えてくるとともに、それとは異なる生き方、文化のあり方に関心が寄せられるようになったという潮流と関係があると思います。オルタナティブ志向といいますか。先住民文化への関心が高まったり、あるいは水俣や沖縄といった、中央の文化から見れば辺境に見える地域、そうしたマージナルな場所から現代を逆照射するような視点がとても新鮮だったし、先端的に見えたということは大きかったと思います。吉本隆明さんなどは「生活思想」と、おっしゃっていました。そういう流れと精神世界は深くつながっていると思います。
 地に足の着いた、身体ともかかわりを持ったものとしてのスピリチュアリティというものに興味を持ち、私の場合は教祖の研究をやりました。例えば天理教の教祖である中山みきですね。教祖と呼ばれる人の知恵ってどんなものなんだろうと思い、知りたくなりました。
 それと、これは言っておかなくてはいけないと思うのは、私は大学という枠組みがあったからこそ、宗教学をやれてきたという側面は強いと思っています。完全に在野の人間として、一人で何もかもやるとなると並大抵の苦労ではありません。その点には自覚的でありたいと考えています。

B:そしてフィールドワークは海外にも拡がっていったということですね。

 そうですね。先ほど申し上げた金光教や天理教にかかわると同時に、しかしその頃から、そういう宗教教団に、「もはやあまり人心が向かっていないのではないか」という感触も芽生えていたんです。そこで84年に渡米しました。行先はカリフォルニア州のバークレー。当時のバークレーは今以上にスピリチュアリティのメッカで、チベット密教などもさかんでした。その頃、「ニューエイジ」という言葉が出てきて、私はそれに惹かれながら反発もするという、アンビバレントな状態でした。だいたい宗教学をやっている人は、自分もそういう世界に惹かれつつ、同時にそこから距離を取るというか、そういう訓練を受けるというか、そんな人が多いですね。皆さんだいたい、共感を持ちながら深入りした経験のある人が多い。島田裕己さんの山岸会がそうですし、中沢新一さんのチベット密教もそうでしょう。

B:バークレーに行かれたことは、先生にとって大きなご経験でしたか?

 たいへん大きな経験でした。物事はグローバルな視点で見なきゃいけないということ、そしてアメリカと日本で同時代に起こっていることは、相互に影響関係があるということもわかってきました。その中で、日本から見えてくるものを世界に向けて発信したいという気持ちも湧いてきたんです。そもそもキリスト教とニューエイジは対立関係にあって、伝統的なキリスト教では捕まえられないような生のリアリティをニューエイジは問題にしようとしてきたんです。しかし日本では、伝統宗教と精神世界は割に近いんですね。シャーマニズムなどもいい例です。

B:それまで「ニューエイジ」あるいは「精神世界」という言葉で流通してきたところを、先生は「新霊性運動」「新霊性文化」と呼ぼうと提唱されています。その意図と、そう呼ぶことで新たに見えてきたことについてお話いただけますか?

 80年代終わりごろからアメリカやヨーロッパの学会に出席するようになりましたが、彼らはスピリチュアリティに関する物事や現象を欧米のこととしてしか見ていないんです。それに対して私は、「いやそうじゃない。世界的な潮流なんだ」という異論をずっと言い続けています。ヨーロッパではキリスト教の伝統が強いので、「精神世界」は人気はあるけどあくまでマイノリティなんです。
 いっぽうアメリカは「ニューエイジ」と言っていて、それぞれローカルな当事者の呼び方ですからそれもいいんですが、私はもう少し普遍性のある言葉を導入したくて、「New Spirituality」、つまり訳せば「新霊性文化」ですが、それを提唱しました。なにが「New」かといえば、伝統宗教に対する新宗教は「New Religious Movement」なわけですから、そのあとに来る新しいスピリチュアリズムという意味です。
 私の先生にあたるロバート・ベラーという人がいますが、彼はその頃から「キリスト教の人もそれ以外の人も、いまはスピリチュアリティへの関心が中心になっている」とハッキリ言っていました。

 つまり、宗教の教義のようなものよりも、まさに今、この時代に生きている人々の心と体を支え、癒しや慰めを与え、倫理観などにもかかわってくる、そうしたスピリチュアルな側面から仏教やキリスト教も考えていく必要があるということだと思います。

B:「宗教」と「スピリチュアリティ」の関係や違いについてですが、そのベラーさんの考えのように、「スピリチュアリティへの関心が中心になっている」ということは、世界的な流れといってよいのでしょうか?

 基本的にはそうだと思います。ただ、どこまでを「スピリチュアリティ」という言葉で指し示してよいのかはまだ曖昧ですから、そこは慎重に見ていかなくてはなりません。例えばいま、ヨーロッパでは巡礼がとても盛んですね。サンティアゴ・デ・コンポステーラはカトリックの聖地ですが、教会へは行かないが、サンチャゴまで巡礼には行くという人が相当いるんです。つまり、カトリックを信仰するのではなく、もっと自分自身の内面を旅しながらみつめたいという、これは明らかにスピリチュアルな欲求です。
パウロ・コエーリョというブラジルの作家がいて、彼はそのサンチャゴ巡礼のことを書き、日本でもだいぶ読まれていますが、それはニューエイジ的なものをカトリックと合体させた世界ではないかと思います。カトリックにはもともと聖人崇拝の考えがあり、様々なものを包容できるところがありますから、実はこうしたことが起こっても不思議ではないんですね。
 日本のお遍路もそうでしょう。あれも真言宗や仏教教理が問題になっているのではなく、やはり自分の心をみつめたいという行為です。ですから、スピリチュアリティを深めると宗教的なものに接近するということが言えるのかもしれません。

B:逆に、宗教を深めると、スピリチュアルなものに近づくということもあるでしょうか?

 そうとも言えるかもしれません。宗教というのはやはり教義的であり、対してスピリチュアリティは、生きている人間のリアリティを土台にしています。ですからリアリティから入っていくとスピリチュアリティなんだけど、そのリアリティを堅固なものにしていくと、教義に近いもの、伝統に近づいていくということがあると思います。私も最近はたとえば鎌倉時代初期の明恵上人という人に非常に魅力を感じていますが、あの人は宗教集団からは離れていった人ですね。

B:いま「宗教」と「スピリチュアリティ」のお話でしたが、「善」と「悪」の関係についても、同じようなことが言えるのでしょうか?

 組織的な宗教にはどうしても排除の論理が働きます。ですから、「善」のほうに向かっていくために、しっかりとした輪郭を立てるので、そこでは排除の機能が起動しがちです。他方、日本の仏教のように「善と悪は区別できません」みたいな考え方が優勢になってくる世界では、オウム真理教みたいに悪をそのまま肯定してしまうようなことも起こりうるわけで、たいへん難しいところだと思います。

B:先生がこれまで研究してこられた実感として、世界的に現在のスピリチュアリティがどんな局面に差し掛かっているか、あるいはどんな未来に向かっているかという点についてお話いただけますか?

 バークレー近辺でニュー・スピリチュアリティが爆発的に拡大している頃は、基本的には若い世代を中心にした、未来志向型の希望に満ちた意識変革の運動としてあったと思います。前衛運動ですね。
 しかし現在では前衛というよりはむしろ、生活のボトムから立ち上がっていくような、老若男女すべての人に関わりがあるような、地に足の着いたものになってきていると思います。
その良い例が、セルフヘルプの運動です。代表的なものとしては、アルコール依存に苦しむ人同士が集まり、互いの経験を語り合うことで依存を克服していこうという「AA(アルコホリック・アノニマス)」の運動があります。また、大切な人を亡くした悲しみを表現し、遺族同士がそれを共有することで喪失を徐々に受け入れていく過程を心理学的な手法も含めて実践していく「グリーフワーク」などもそうだと思いますね。こうした苦しみや悩み、悲しみ、そういう所から人が立ち直ろうという動きですね。それはかつては宗教が担っていたかもしれない部分ですが、今はかなりの程度、新しいスピリチュアリティが担っていると考えていいと思います。
 それと同時に、かつては伝統的な宗教から見て異端だとかカルトだとか、劣って見られていたものの中に、ある種の可能性があることも、ごく自然に見えるようになりました。
 私は最近、児童文学に興味を持っているんですが、たとえば、『ハリー・ポッター』の世界観もなかなか興味深いし、宮沢賢治やアンデルセンの童話にも深いものが隠されています。アンデルセンの描く世界は、キリスト教が土台になっていますが、その中には実は、キリスト教とはかなり異なるスピリチュアリティが入っている。キリスト教の教義では割りきれないような、ある独特のやさしさがあるんですね。非常に悲しい物語世界なんだけれども、そこになぐさめがある。それはキリスト教の教理とは異質なものなんです。

B:今まさに、「つながり」の中で「癒す」「癒される」ということが大きな課題としてあると思います。

 先ほどもちょっとお名前を出しましたが、宗教学者の島田裕己さんが今年、『葬式は、要らない』という本を書いてヒットしました。いま、葬式はどんどん簡略化の傾向にあるんですね。そしてお年寄りの孤独死が増え、無縁社会と言われる方向へ向かっています。ホームレス、派遣労働者など、孤立無援の人も非常に多い。ポツンと孤立した人があまりにも多いんです。そこでは、人とつながることは切実な問題であり、逆に言えばつながることで癒しが実現される可能性も高くなると思います。
 しかし、昔風の大家族や親戚、地域社会をベースとしたつながりを取り戻すのは到底、無理だし、かといってカルト化して内側に壁を作ってしまい、外部との交渉を一切、断ってしまうのも危険です。

 では、どうやってつながりを求めるかといえば、人間には解決しなければ問題がそのまま残ってしまう領域というものがあり、悩みや苦しみがあるわけです。お互いなんとかしなければいけない人同士が集まる場所が必要です。先ほどのセルフヘルプの運動がまさにそうですね。そこでは苦しんでいる当事者ばかりでなく、自分でははっきり名指せるニーズはないけど、スタッフとして手伝っている人も、「感謝される」「笑顔が見える」ということで、それが生きがいになっていくということはあると思います。持続性という点ではやや頼りないかもしれないけれど、弱者の連帯と言いますか。そんなネットワーク的なつながりがたくさん出てきました。
 日本の場合は、従来は国家に任せていて、欧米社会の方が教会を背景にしたり、市民の自発性によるボランティアのネットワークがあったんだけれども、1995年–この年はオウム事件と阪神大震災があった大変な年ですが–多くの若者が神戸にボランティアに駆けつけたでしょう? あのあたりから事情が変わってきたと思いますね。

B:一つひとつの「つながり」は小さく、弱いものかもしれないけれども、それぞれの実践がそこに集う人々の生きる力やリアリティとなり、やがてそれらの束が大きくなれば、社会を動かすこともできるとお考えですか?

 まさに。そう考えたいですね。私も最近、孫ができまして、もっぱらそちらの「つながり」で癒しを受けています(笑)。子育てをしている人同士のかかわり、保育所に子どもを通わせている人同士の花火大会などでは、親たちのボランティアに感銘を受けました。バークレー時代のことを少しお話しましたが、私が最も共鳴したのは、黒人の教会なんです。そこには、公民権運動の時代を経ているとはいえ、アメリカの黒人という、虐げられた弱い立場にいる人々が、強烈に自分たちの生き方や、生きることのリアリティを沸騰させている、スピリチュアリティの輝きがありました。人々はベーシックなニーズに即した喜びを経験し合い、そこにスピリチュアリティも入ってくる、ということだと思います。

 最近の日本でも年収600万の人が、安定はしているが不本意な仕事をやめ、交わりを重んじて、飲食店を開いてゆったりとした生活を楽しんでいるというような話も耳にします。年収は半分になったけれども、今まで途絶えていた家族との会話も再開し、仕事にも充実感を取り戻す。そこではあえて「スピリチュアル」という言葉は使わなくても、オルタナティブ・スピリチュアリティが目指すところと同じではないかと思います。いわば、シンプルライフと言いますか。

 F・アーンスト・シューマッハの『スモール・イズ・ビューティフル』という本がありますが、あれは重要ですね。私の近くの大学院生でも「どうせ教職につけないかもしれないし、農業もやります」と言っている若者もいますから(笑)。それこそ安藤昌益に通じるような、中央の権力から遠く離れて、土地を耕して生きることこそ生活の根本であるという発想が生きているように思います。混乱し、収拾がつかないように見える世の中でも、生活に即した身近なリアリティ、スピリチュアリティをベースに人々がつながり、励ましあう中で、やがて社会が動き出すということが、きっとあると信じています。

B:本日は、ありがとうございました。


島薗 進(しまぞの すすむ)

1948年、東京都生まれ。東京大学文学部宗教学・宗教史学科卒業。
東京大学文学部・大学院人文社会系研究科宗教学・宗教史学研究室教授を経て、2013年上智大学グリーフケア研究所 所長に就任。
研究は、近代形成期から現代までの日本の宗教史を中心に、現代世界の諸地域の宗教のあり方の比較、死生学。 2012年湯浅泰雄賞を受賞。著書に『精神世界のゆくえ』『スピリチュアリティの興隆』『国家神道と日本人』などがある。

 ■公式ブログ:宗教学とその周辺
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■Twitter
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