KAI Philosophy #01

カウンセリング・ゲーム

人間学

毎日の日常生活の中に、いろいろな人との会話の交流があります。そこで私たちは様々な感情の交換をしています。ある人と会った後は、すがすがしい気持ちになるのに、ある人と会えばゆううつな気分になる。あの人ときのうはあんなに楽しく話せたのに、今日は腹が立ってしょうがないーーー。

そこに注意を向けてみましょう。<カウンセリング・ゲーム>をしてみましょう。それはお互いの存在価値の認識ゲームです。心の対話がなくなった時、人間は不安定になるもののようです。一人、一人がカウンセリング・ゲームを楽しめるようになれば、今、見えている世界が変ってくるかもしれません。

私たちの人との交流には、すでに、無意識のうちに、ゲーム的要素を大いに含んでいます。ここで言う、ゲームとは、ちょっとネガティブな意味です。自分の手の内を相手に見せず、ポーカーフェイスをあやつって相手の反応をうかがう・・・というような、カード・ゲーム的な要素です。防衛的になっている状態です。ドアは閉めたまま、のぞき窓から様子をうかがっている、とでも言えるでしょうか。そんな状態は、夫婦関係でも多いものでしょうし、嫁と姑の関係や、子供がわざといたずらをして、親の反応を見る、といったことにも見られます。そこには、表面の態度とは別の裏のメッセージがあります。カウンセリング・ゲームは<内面を浮かびあげる対話>です。それが上手にできれば、秘密のメッセージを的確にキャッチできるでしょう。こだわりを捨て、閉ざしたドアを開いてくれます。

「カウンセリングでは受容と共感ということが、温かさや純粋さと並んで人間関係の最も基礎的な要素として重視されている。受容とは、相手を心から尊重し、その人のやったことは悪いかもしれないが、人間として受け入れるという態度である。共感というのは、相手の立場に立って、相手が物事をどう見るか、どう考えるか、何を感じているかを理解し、「わかった」ということを相手に伝えることである。人間というのは、他者に受け入れてもらえたと思える時に、自分を無理に主張したり、防衛する必要を感じなくなる。そんな状態を経験した時に心から安心することができるし、自分自身を多少なりとも客観的に見つめることができるようになる。」
– 関西学院大学教授 武田 建

この文章にカウンセリング・ゲームの大切なルールが示されています。受容と共感、温かさと純粋さ。精神分析的な方向とは違うのです。心理の分析、そこから何か結論をひきだそうという方向に向かっていくと、生き生きとした対象であったはずのものが、何か無機質な冷たいものに変ってしまいます。その時には、自分自身もそのようなものに変化していることに気づくでしょう。精神分析学は確かに深い底なし沼のような、人間の内面を知る手がかりをたくさん与えてくれましたが、直接、現実の人間の幸福に結びつけることはできませんでした。理論と現実との間のギャップをうめることができなかったのです。そこで、その中でも現実主義派の人たちがカウンセリングという技法を生み出しました。それをここでは、もう一つ進めて、それをゲームとして、日常生活に取り入れてみようとするのです。

続きを読む

ゲームというのは、本来、楽しいもののはずです。勝敗に関係なく、それに参加している人が活き活きとしているものです。それでは、ゲームを楽しくするために、ゲームの<読み>を深くするために、「交流分析」の知恵をひきだしてみましょう。

交流分析では、人はすべて「三つの私」を持っている、としています。すべての人に次の三つの状態があります。

(一)親P(Parentの略)
これは自分の両親や、その他自分を育ててくれた人たちの行動や感じ方が表れてくる部分です。その中でさらに、厳格で批判的な特徴を示す、父性的なPとやさしく、保護的な特徴を示す、母性的なPとに分けられます。

批判的P・・・威圧的、権威的、断定的、排他的、支配的、きびしさ、責任感など

保護的P・・・同情的、受容的、理解的、寛大さ、非懲罰的、面倒見のよさなど

(二)大人A(Adultの略)
これは私たちの人格の中で、物ごとを冷静に判断して行動する大人の部分です。

A・・・注意深さ、理論的、合理的、客観的、冷静、説明的、打算的など

(三)子供C(Childの略)
これは自分の幼い頃と同じように感じたり、行動したりする部分です。その中で、子供本来の、自由なCと、大人との関係による、順応したCに分けられます。

自由なC・・・感情的、開放的、本能的、直感的、創造的、空想的、素直さなど

順応したC・・・依存的、反抗的、挑戦的、自虐的、自己愛的、甘え、従順さなど

例を出しながら、図にしていくとわかりやすい、と思います。お母さんが子供に注意しています。

母PAC 「いちいち逆らわずに、ハイって言えないの?」

子PAC 

ここではお母さんの批判的Pから子供の順応したCへ言葉が発せられているわけです。これに子供が「ハーイ」という形でお母さんの発した言葉の方向に沿って(C→Pへ)言葉を返せば摩擦はおきずにすみますが、そう言われた子供は、そう単純にはいきません。

母PAC

子PAC 「自分だって、パパの言うことに逆らってるくせに。」

子供は日ごろの観察力のデータを使い、理論的に、Aからお母さんのCへ向かって言葉を発します。ここでお母さんがキーッとなって、「何、言ってんのよ!」みたいなことになりますと、お母さんは完全にCの状態ですね。

このように、人との交流の中で、PACが表われたり、消えたりします。それを観察できるようになりますと、人間の交流の、言葉の陰に隠されている、秘密のメッセージに気づいてきます。

誰かとの会話の後、不快な気持ちが自分に残っている時は、必ずこのPACの会話の方向がバラバラになっているはずです。相手からの気持ちの方向をうまくキャッチして、同じ方向へ向って返してあげる時、気持ちのいい会話がおこなわれています。それを交流分析では「平行的交流」と呼んでいます。

甲PAC  乙「今度の問題は、私にはちょっと荷が重いのですが、力を貸していただけますか?」

乙PAC  甲 「そうだね。いつでも力になるから、安心して、やれる所までやってみなさい。」

ここでは乙という人がAの部分で自分の状況を判断して、甲という人の保護的Pを求めています。甲も乙のAの部分を認めた上で保護的Pを示しています。

男PAC  男 「ねェ、あそこへ一人で行くの、いやなんだ。一緒に行ってくれない?」

女PAC  女 「・・・いいわよ。」

ここでは、どこへ行くのかはわかりませんが、彼の方がちょっと弱気になって、彼女へ助けを求めています。彼女は彼のCの部分をやさしく受けとって、保護的Pからそれに答えます。

ここで彼女が「やだ、それくらい一人で行きなさいよ。」などと答えると、図はこう変わります。

男PAC

女PAC

このように、自分が相手に発した方向を裏切るような形で反応が返ってくる時、それを「交叉的交流」と呼んでいます。最初の例の母と子供の場合もそうなのですが、この交流がおこなわれている時には、人間関係に摩擦が生じます。

父PAC 子「お父さん、今度のことはお父さんにも悪い所あるんじゃない?」

子PAC 父「子供が口だすことじゃない!」

こう言われてしまっては、子供は返す言葉もありません。そんなことを言うようになった子供の成長を喜こび、そこから言葉を返していけば、父と子の新らしい関係が生まれていくところでしたが、そのチャンスを逃がしてしまいました。

夫PAC 妻「ねェ、今度の日曜日はどこか出かけましょうよ。」

妻PAC 夫「僕が今それどころじゃないことは君もわかっているだろ。」

ここでは矢印は交叉せず、平行なのですが、発する所、受ける所に距離があります。これも交叉的交流に含めます。妻の言うことを断わるにしても、「僕もどこか行きたいけどなー。」というような言葉ですと、平行的交流になります。

夫PAC

妻PAC

情緒的な成長が未熟な者同士が夫婦になりますと、どちらも自分の異性親からの心理的な分離ができていませんので、お互いが相手の中に異性親のイメージを求め合います。しかし、どちらもそれに答えるものを持っていません。そこではこんな会話がよくされています。

夫PAC 妻「ねェ、何とかしてよぉ。」

妻PAC 夫「バカ、おまえこそこんな時、しっかりしろよ。」

それが逆にあらわれますと、

夫PAC 夫「何やってんだ。もっと注意してやれよ。」

妻PAC 妻「何言ってるの?あなたが勝手なことするからでしょ。」

このように見てくると、おわかりのことと思います。人との交流はキャッチボールのようなものです。はずれた所に投げれば、相手は受けられません。そして、投げられた所へちゃんと投げ返すには、批判的P、保護的P、A、自由なC、順応したCがバランスよく育っていることが必要です。そして、いつでも自由にPでもAでもCでも出すことができるしなやかさが大切なものになります。

あなたに何が欠け、何に偏っているのか自己判断してみましょう。カウンセリング・ゲームを楽しむのはそれからです。ちょっとした言葉の違いが相手の心理の向きを大きく変えてしまいます。権威的に、「ああしろ、こうしろ」と命令ばかりされ、「そうしなければ、困るのはおまえだ。」というような脅し文句をかけられますと、順応したCのネガティブな面ばかりを偏って育ててしまいます。人間は外的な圧力に対しては防衛的になり、自らを変えることに抵抗を見せ、自分を冷静に、客観的に見つめようとするAの部分を育てようとする方向にはむかいません。権威的なものがゲームの味つけとして、必要な場合もありますがーーー。

「かわいそうに」というような哀れみの言葉も時として、反感や抵抗を感じる外的圧力と感じてしまうこともあります。

カウンセリング・ゲームの注意をもう一つ付け加えるなら、<カウンセリング>ということに、とりこまれてしまわないようにーーーということです。カウンセリングのためのカウンセリング、分析のための分析になってしまってはいけません。このゲームを楽しむには、根底に、人間の存在に対する愛情が必要です。それは何か限定された対象へ向ける、固定された愛ではなく、あなたの心の方向という意味での、拡がりを持った愛です。

先に、受容と共感、温かさと純粋さ、ということを言いましたが、それらのものも、すべてこの愛情というものに還元されてしまうものです。

この感覚のない人は、このゲームに参加する資格はありません。


Related this colum