KAI Philosophy #02

コミュニケーションの原理

人間学

万物は諸行であり
全てのものは同じく一つのものである

というのは仏教の教えるところのものです。また、世界じゅうのさまざまの宗教、偉大なるマスターたちは同じことを言っています。近代科学の発達の過程は、そんな宗教的な教えとはまったくかけ離れた方向へ向かっているように思われていましたが、最近になって、科学とは宗教的教えの科学的証明をするための発達だった、と思われるような発見が次々と起こっています。

「振動子の同位相固定」という現象があります。<同乗作用>と呼ぶものです。二つ、あるいはそれ以上の振動子が同じ場で同時に振動している時には、必ず位相が一致する傾向があって、その結果、まったく同時に振動するようになる―――というものです。

その現象がおこる理由は、自然には最も効率のよいエネルギー状態の方へ常に動こうとする性質があるからです。反対方向に振動するよりも、共振する方がエネルギーが少なくてすむ、ということです。この現象は万物に共通であって、人間も、もちろん、例外ではありません。人間は体内に発振器を持つ、「リズムの場」です。ほとんど気づかれることがないのですが、いいコミュニケーションが起こる時には、必ず、この同乗作用が起こっています。今までの、誰かと、とても気持よく話ができた場面のことを思い出してみてください。話したいと思っていることを相手がたずねる。・・・聞きたい答えが返ってくる・・・言葉がスラスラとでてくる―――そういうことがあります。あるいはすばらしいコンサートでの、会場の一体感はどうでしょう? また、同じ家で生活している家族は、大体、同じようにおなかが空いたり、寄宿学校にいる女子の生理の時期がほぼそろってくる、というようなこともあります。

このようなコミュニケーションの存在は、大脳的なコミュニケーションに頼っている現代人たちは、軽視しがちです。論理性や合理性の少なかった、太古の人類たちはこの直感的コミュニケーションの感覚が、すばらしく発達していたことだろうと思われます。そして、そこでは人も動物も植物も、空も大地も、月も太陽もこの世にある全てのものが、いのちと心を持ち、自他の区別はなく、個と世界は一つのものとして溶け合っていたことでしょう。世界中に残る神話には共通したものがあります。

今、この現代において、そういうものをもう一度、獲得しようとする時期が来始めているようです。

「十九世紀の絶頂期、西洋の人間は自分を永久に自然と戦い続ける孤独なヒーローにしたてあげた。体は要塞であり、五感は外部からやってくる不可避の敵を見つけて危険を知らせる番人だった。そうした考え方が知覚と現実を限定してしまった。外部世界は敵であり、常に戦いが待っていた。
けれどもそんな時代はもう過去のものだ。自分が世界に対して、一人離れて存在できるとは何と傲慢な考え方だろう。感覚は―――互いにからまりあったすべての感覚は―――単なる番人どころか、世界と結びついていくための重要な手段である、ということを私たちは今、やっと理解し始めている。さまざまなリズムを知覚域に変換し、ものごとの関係を学ぶことによって、私たちは世界と調和のとれた関係を結ぶことができる。私たちは決して分離しているのではない、知覚できるものすべての一部なのだと、感覚は語りかけている。」G・レオナード 『サイレント・パルス』より

私と、存在する全てのものは同じ一つのものである
それは決して原始的な迷信でも、宗教的な観念でもなく、それが”事実である”、と言えます。

私たちが普段の生活をしている時の脳波はベータ波と呼び、ベータ波においてはその波形は個人、個人によって、千差万別違っています。それが深いリラックス状態のアルファ波、さらに深いシータ波、無意識のレベルのデルタ波と深くなっていくに従って、各人の脳波の波形は個性を失ない始め、だんだんと近づいてきます。

それ以上深い意識レベルの脳波の観測は今のところ、よくなされていないのですが、おそらく究極では、波形の個別性はなくなり、完全に一致してしまうであろうと言われています。さらに、それは動物、植物、おそらくは鉱物に到るまで例外ではないだろう・・・ということです。

人間を脳波的にとらえるならば、覚醒脳波ベータ波交流においては、人と同調しえないとも言えます。そこで相手のすべてを判断しようとしたり、自分の側にとりこむことはできません。そこは、お互いの感覚に距離をおいた<刺激の場>です。その刺激から、お互いのより深いものがあらわれてくるかもしれません。つまり、「うどん好き」と「そば好き」の違いのようなもので、それを論議の対象にしてもしかたありません。人と人との論争をよく聞いていると、最初から全然違うことを論議していたり、結局、同じことなのに違う方向からけんかをしている、というようなことがよくあります。「夫婦げんかは犬も喰わない」とはよく言ったものです。表われ方の違いは野に咲く花の色の違いのようなもので、いろんな色があることを楽しめばよいことです。

それがアルファル波、シータ波、デルタ波・・・と深くなるにつれて、同調がおこってきます。一芸にひいでた者同士は、分野は違っていても、感覚的に同じことを言っているとか、すばらしい芸術家は他の芸術も理解する力を持っているものです。何か一つを深く理解していくと、どれもこれも同じものなのです。

私たちは地表に出ている目に見える部分では、それぞれに違った個人として存在していても、地中深くの根っこの部分に到れば同じ一つのものである、植物のようなものと考えてよいでしょう。

その安心感の上に立って、世界をながめる習慣ができれば、それぞれに違う個の働きも、かえってそれがおもしろく、自分に深みを与えるものとして映ってきはじめ、そこからコミュニケーションが生まれてくることでしょう。


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