Meeting With Remarkable People #57

ジャン・アルチュール・ランボー

1854 - 1891

フランス象徴派の詩人。
早熟の才を示し、16歳で初期詩篇を書き、文学界を驚かせる。
20歳で文学と縁を切り、世界を放浪。
アフリカで交易に従事し、37歳で逝去。


 何者にも到達できない作品を生み出した早熟の天才詩人。その作品は、15歳から19歳にかけて作られた。彗星の如く消えていったランボーの一生とは、どのようなものだったのか。

 1854年、ジャン・アルチュール・ランボーは、フランス北西部シャルルヴィルに生まれた。父は陸軍の大尉、母は百姓の出身。軍人気質で大雑把な父と、熱心なカトリック教徒で頑固な母、夫婦仲は悪かった。ランボーが6歳の時、母は別居を決意。1862年、8歳の時、彼は私立ロサ学塾に入学。幼年期のランボーは、母親の厳しいしつけにより、学校では優秀な成績を納めた。

 1865年、11歳の時、高等中学校へ入学。わずか3カ月で飛び級して、周囲の大人を驚かせた。母の影響もあり、彼は熱心な信仰に目覚めたが、長続きせず、異端の書とされたラテン詩人達の詩を読み耽った。成績は変わらず優秀で、兄のフレデリックを抜かして進級、教師達は驚くとともに、彼を神童と称えた。1869年、15歳の時、アカデミー主催の学力コンクールで、ラテン語の詩を作り一等賞を取る。翌年、フランス語の詩『みなし児たちのお年玉』が雑誌に掲載される。

 1870年、16歳の時、普仏戦争勃発。彼も革命思想に目覚め始めた。この頃、ボードレールなどの現代作家の作品を好んで読み始める。パリが包囲される直前の8月に学業を捨てて家出。スパイ容疑で投獄されたりしながらも、放浪の味を占めた彼は、何度も家出を繰り返した。1871年、17歳の時、パリで「革命散兵隊」に加盟。しかし、彼の描いていたイメージとは程遠く、落胆した彼は、革命への情熱も失った。この期間は、ランボーの一生のうちで最も多くの作品を書いた時期でもあった。

 その後シャルルヴィルへ戻った彼は、詩を書くことに没頭。大作『酔いどれ船』を完成させる。この作品を読んだヴェルレーヌは、ランボーの才能に驚き、パリに来るようすすめた。ランボーは、再びパリへ向かい、ヴェルレーヌと同居する。ヴェルレーヌは、どこへ行くにも彼を同席させ、文壇、詩壇の大家たちに紹介したが、その生意気な振る舞いが災いし、決して歓迎されることはなかった。

 1872年、18歳の時、この生活にすっかり飽きたランボーは、酒浸りの退廃的な日々を過ごした。ヴェルレーヌは妻子を捨て、彼と共に放浪することを選んだ。ランボーはヴェルレーヌのもとを去ろうとしたが、絶望と嫉妬に狂ったヴェルレーヌは、自殺のために用意していた拳銃で、彼を撃つ。1発がランボーの左手首に当り、彼は入院、ヴェルレーヌは2年の禁固刑を言い渡される。同年、『地獄の季節』が完成。しかし彼は、夢から醒めたかのように、自分の本を暖炉へ投げ込み、この先、二度と筆をとらなかった。

 その後、彼は、フランス語教師、兵士などの職業を転々としながら、ついには貿易商人となる。1880年、26歳の時、紅海を中心に放浪の末、アラビア半島の南端の港でフランス商人に雇われ、アフリカ奥地へと銃器の取引へ向かう。この危険な旅を成功させ、富を手にした彼は、31歳の時、武器商人として独立。しかし、その成功も長くは続かなかった。1891年、37歳の時、右膝に骨肉腫ができた。フランスに戻り、右足を切断して再起を図ったが、病巣は全身に転移していた。妹のイザベルが見守るなか、永眠。この頃、パリでは、かつての作品が注目され、ランボーの名声が高まっていた。

 詩人と武器商人という、ふたつの対照的な職業に身を置いたランボー。とてつもない才能は、彼の運命を翻弄し、その人生を焼き尽くした。しかし、彼が残した作品は、今もなお、若き人々の魂を揺さぶらずにはいられない力を持っている。


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対訳 ランボー詩集
岩波書店
1122円(税込)

驚くべき早熟さで、彗星の如く詩壇に登場。人間の愚劣と文明を呪詛し、瞬時にして灼熱の砂漠に姿を消した天才詩人ランボー。ヴェルレーヌに「偉大なる魂」と絶賛された深い霊性、鋭利な感受性が紡ぎ出した芸術的価値は、今なお保たれて、光り輝いている。

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