ジョン・ケージ
アメリカの音楽家、作曲家、著述家。
芸術活動の根底には禅思想、インド哲学、秘教的神学などのソースがあり、
音楽の定義をひろげた、実験音楽の代表的存在。
現代音楽の旗手として活躍したジョン・ケージ。革新的な実験、数々の手法は、美術や演劇、文学にまで多大な影響を与えた。音楽のあり方を変えた彼の一生を追ってみたい。
1912年、ジョン・ケージは、ロサンジェルスで生まれた。父親は発明家、家族には牧師や音楽家が多かった。彼は、幼少の頃から頭の回転が速く、成績も良い少年だった。8才の時、ピアノに興味を持った彼は、自分から両親にレッスンを受けさせて欲しいと頼む。
1928年、16才の時、ハイスクールを主席で卒業。学校始まって以来、最高の成績だった。1930年、18才の時、音楽以外に、文学、建築、絵画に興味を持ち始めた彼は、両親を説得してヨーロッパへ渡る。建築やピアノを学び、ヨーロッパ各地を渡り歩きながら、絵を描き、詩を書き、作曲を始めた。翌年、アメリカに帰国したが、大恐慌のため、家族は苦しい生活を強いられていた。1933年、21才の時、ニューヨークへ移る。ニュースクールの助手をしながら、最初の作品群、『六つの短いインヴェンション』などを創り上げた。1934年、22才の時、南カリフォルニア大学で作曲を教えていたシェーンベルグに師事する。1935年、23才の時、偶然見かけた女性に一目惚れ。ギリシャ正教司祭の娘ズィニアと結婚する。この頃、シェーンベルグの発言に対する反発から、師のもとを去る。1937年、25才の時、シアトルへ移り住み、コーニッシュ音楽院で作曲家兼伴奏者のポストに就く。舞踊振付師マース・カニングハムと知り合う。ノイズや打楽器に興味を持ち、パーカッショングループを結成した。
また、水中バレエ団のために、水の中で音楽を聴くことができる装置を作るなど、発明家としての才能も発揮した。彼の斬新な手法と活動は、時代と共に注目を浴びるようになった。第二次世界大戦が始まったが、発明家の父の貢献が認められ、兵役を免れた彼は、ニューヨークでの活動を続けるが、33才の時、ズィニアとは離婚。
1948年、36才の時、ブラック・マウンテン・カレッジで、同じく教師だったバックミンスター・フラーと知り合う。また、東洋思想を追求するために、コロンビア大学で、鈴木大拙の禅の講義を受ける。『易経』を読んで影響を受けた彼は、サイコロの目で音を決めるという偶然性を取り入れた『易の音楽』を作曲。また、ピアノの弦にゴムや木ネジをはさむ「プリペアド・ピアノ」の手法を開発した。1952年、40才の時、ウッドストックで、彼の代表作である沈黙の作品『4分33秒』を初演。ピアニストが登場し、何も演奏しないで退場するこの作品は、観客を困惑させた。1961年、49才の時、初の著書『サイレンス』出版。後に、現代音楽のバイブルと評価される。
名声を手にした彼だが、経済的には非常に貧しく、50才をすぎてもアルバイトをしていたという。1962年、50才の時、以前から興味を持っていたキノコへの関心が高まり、ニューヨーク菌学会を設立。同年、初来日し、オノ・ヨーコらと共演している。晩年になっても、彼の創作意欲は衰えなかった。コンピュータを使った作曲や、偶然性を取り入れた手法で、オペラの新しい舞台も作り上げた。1992年、79歳の時、脳溢血で倒れ意識を失っているところを、カニングハムが発見、そのまま意識は戻ることなく、帰らぬ人となった。ニューヨーク近代美術館で、生誕80年の記念式典を予定していたが、急遽変更して追悼コンサートが開かれた。
ジョン・ケージは、沈黙を音楽として認識することで、新しい価値を生みだし、それまでの固定観念に風穴をあけた。彼の作品は、音楽の枠を超え、すべての芸術に、問いを投げかけている。
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ジョン・ケージ、ダニエル・シャルル
(株)青土社
2090円(税込)
現代音楽の鬼才ジョン・ケージ。彼の音楽は、鈴木大拙の禅や易経、荘子などの出会いによっても影響され、音と沈黙の見事な調和を実現させる。遭遇する一つひとつの物事を、常に根源的な地点から考察する豊かな感性と知性を、読者は、本書から読みとることができるだろう。