Creators Column

旅のスケッチ 道行く人の語らい #3

建築家 / 村山雄一

大地は波打ち、うねりながら丘をなしていた。水田の多い日本と違い、麦畑が丘の起伏に呼応して胎動していた。
生きている。画家ゴッホの描く麦畑のようだ……。
スペインの田園風景を横目にしながら、男は「今日はここ止まりにしよう」とハンドルを手にした女に声を掛けた。
車は車道から、脇道の農道へとハンドルを右に切った。そして、少し走ったところで止まった。
あたりに人影らしきものはどこにもなく、周りいちめん麦畑だった。日暮れにはまだ間があった。
男はキャンピングカーの屋根を突き上げると、中に立って夕食の準備に取り掛かった。「食べるの、車の外がいいね」と言いながら………。

翌朝、早く出発した。朝食とコーヒーを済ませ、農道をもと来た道へとバックで戻る途中、車の後輪が農道と車道の間の側溝にはまり込み、車は動けなくなってしまった。運転席の女も降りてきて、困惑した男と女はその場に立ちすくんでいた。すると、どこからともなく一台のトラックがスーッと寄ってきて、その荷台から野良着姿の数人の男が飛びおり、車を囲むと皆で持ち上げ、車道に戻すと、また荷台に飛び乗り、そのままトラックと共に消えて行った。言葉を交わす間もない、アッという間の出来事であった。顔を見合わせた男と女はそこに【無私の精神】を見た。自分の関与を秘密にしておく、それは【行動への愛】だと思った。「善をなせばいいのだ」。そう、周りの麦畑は叫んでいるようだった。

麦畑は、やがてそれを耕す人の姿となりそして、町の風景となって私達の前に姿を現してきた。その景色の中に私は〈カインとアベル〉を見るのだった。聖書の中のカインとアベルの話である。神への供物として、弟のアベルは羊を、兄のカインは穀物をそれぞれにささげた。
ところが、神はカインの穀物は受け取らずアベルの羊の供物だけを受け取った。このことで、アベルとカインの一族の間に争いの種がまかれ、カインは弟アベルを殺してしまうことになる。
私は日本でまだ建築科の学生だった頃、この話を図書館の本で初めて識った。その時は〈カインがアベルを殺す〉ことは狩猟民族から農耕民族への移行を象徴する出来事として説明がなされていた。私はなる程、と納得していたのだが……。

さて、神が創った楽園を追われた人間には、この地上に第2の楽園を自ら築く「人間の使命」がある。その使命のことを思うと、人が狩猟民族の時代から農耕民族の時代へと移って行ったとしても、ヨーロッパの都市形態の中には、それ以上のものがある気がする。一体、それはどういうことなのか……。〈アベルの羊〉とは、何を意味するのか。それは神から人にさずけられたもの。自然のいきもののことである。神に認められし〈アベルの羊〉は今も、教会と共にあり、人々の心に住まう生命の糧であり続ける。目に見えなくても、形なく生き続ける生命の無事にまつわることである。

日本でも自分の力ではどうすることもできないことについて、それが叶うことを願う〈神だのみ〉をする。また目に見えない事であってもその無事安全を願って〈かしわ手〉をパチパチやる。この様に目に見えない、高次な存在に対して、こうした謙虚な畏敬の念をもって向き合うことは人の心に信仰心の芽生えが潜んでいる証ではないだろうか……。一方の〈カインの穀物〉とは、神に与えられし自然のもの、そのものではなく、人間が大地を耕し、汗を流して働いて得たもののことに他ならない。このことをよく考えてみると、今の時代のロボットすら、人間が自ら創り上げた〈カインの穀物〉と言えるであろう。否、文化、芸術、科学、ひいては家族、民族、国家すら人が築いた広い意味での〈カインの穀物〉と言えるだろう。

これは中世の頃に出来た町であろうか……。人々の厚い信仰心が見る者の心を打つ。調和があって美しい光景である。町中にあるいくつもの教会の姿。それを可能にしたのは、実はメーソン(石工)である。石をあれだけ高く積み上げる技術は、自然の石を建物に変えるという高度な技術に基づいている。私は、〈カインの穀物〉を担う建築家として、いつもモチーフを捜し求め、その現実化を極めようとしてきた。そして、この思考のうちに私の心の中に有機的な生命力が湧き起こってくるのだった。私は〈アベルの羊〉をも生きようとしているだろうか……。〈アベルの羊〉は、狩猟民族として、農耕民族の〈カインの穀物〉へと歴史上の進化のバトンタッチをしただけのものではなかった。

日本の自動車産業を担うH社による富士山の見える土地に未来の都市づくりの鍬入れ式の様子が、2021年2月に報道された。電気自動車はもちろんのこと、AI知能満載の都市が出現することであろう。富士山という日本を代表する霊峰が見守る中、時代の先端を行く都市が出現することであろう。願わくは、人間味のある都市であって欲しい。入口のドアの取っ手一つにしても、人間に語りかけてくる、親しみのあるものであって欲しい。そうしたことで、富士山は銭湯のタイル絵に終わることなく、人の心の霊峰となり得ると信じるからである。

新しい高度技術に支えられた〈カインの叡智〉だけの都市であってはならない。第2の楽園をこの地に実現するのであれば、〈アベルの叡智〉と〈カインの叡智〉の融合のうちに、人の心の生命の光を見出すことである。叡智は単に学ぶためのものではない。それは地上に打ち建てるものである。人間が一本の柱になって都市の中に存在することである。

男と女はともにその霊力を合わせ霊の衣装を織る。
トラックの荷台から飛び降り来たった野良着姿の男達の心意気を持って………。


建築家 村山雄一(むらやま たけかず)

1945年北京生まれ、佐賀県出身。早稲田大学理工学部建築学科卒業後、76年に一級建築士免許を取得。その後、旧西ドイツに渡り、ルドルフ・シュタイナーの人智学思想の研究。その間、ヨーロッパ各国をスケッチ旅行、ギリシャ、トルコ、エジプト、インド、ヒマラヤにも及ぶ。西ドイツ、オーストリアの建築事務所勤務を経て84年に帰国、横浜に村山建築設計事務所を設立。
http://www.murayama-arch.com

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