Creators Column

旅のスケッチ 道行く人の語らい #11

建築家 / 村山雄一

インドのバスの中で夜、私が寝てるところ
そっと男の手が身体に忍び寄ってきた。
それはアムリスタールよりさらに北のカシミール地方の、
丸一日半かかるバスの旅の出来事であった。

バスの運転手は、五十がらみの、
アゴヒゲをたくわえたシーク教徒の男であった。
白い布のターバンを頭の上に高々と巻き上げていて、
運転する手を休めてそれに手をやることもなく一日中ハンドルを握っていた。
ターバンには誇りが込められていた。他の若い男の車掌が同乗していた。
乗客は土地の人で満員だった。外国人は私くらいのものだった。

陽が沈み、外の景色が暗くなった頃、
「今日はここまで、明朝六時にここを出発、皆乗りおくれないように!」
とターバンの男が叫んだ。
その言葉に従い、乗客全員がゾロゾロとバスを降り、暗闇の中へ消えていった。
私は呆気にとられ、どこだか分んない処で宿なんか捜しておれるか、
とターバンの男に談判に行った。バスの中に泊めてくれ、と。
心よく承諾を得た私は座席の上に寝袋を敷いて、その上に横になった。
旅の疲れがドッと出て、夕食をとる間もなくウトウトと眠り込んでしまった。
バスの乗降口の開く音に目が覚め、どうやらターバンが帰ってきたな、
きっと行き付けの食堂へでも行ってきて帰ってきたのだろう
くらいに考えていると酒の臭いが近づいてきて、
男の手が私の胸の上におかれて……私は目を閉じたまま黙っていた……。
この欲望は浄化しなければならない
この世には男性と女性という二つの相異なる性がある。
神様は旨く創ったものだ。
人間が二つの性に区別されてあるのではなく、両性具有の単一性であったなら
今日のような世界の進化発展は望めなかったであろう。

すると同性愛というのはどういうことか……。
肉体的にも精神的にもそれは禁じられた律すべきことなのか……。
でも個と個であるなら男同士であろうと女同士であろうと、
その間に「との空間」を持てるはずである。
そして「との空間」にかかる橋を感性とすれば、
それを通して人は愛に目覚めるであろう。
それには、個に徹しなければならない。
すると今まで何でもなかった周囲の世界が
自分に対峙してくるものとして見えてくる。
「との空間」が生まれる。

私はこのことを求めて旅に出たのかも知れない。
そもそも人間は対象をもたない限り、何も生まれてこない。
この世を生きる価値すらないように思えるのである。

またバスの扉が開く音がして、若い車掌が帰って来た。
その気配に気づいたターバンの男は
何でも無かった様子で運転席へと戻って行った。

翌日の昼頃、バスは目的地のカシミール地方に着いた。
湖水に浮かんだ舟の宿、ちょっと休養に来た気分に誘われた。
旅のガイドブックで生水には注意することは十分に承知していたが、
舟の上に水道がある。
蛇口をひねる、水きれい、外は暑い、飲む……。
その日の夕方から下痢が止まらず二日間、
舟の上で寝て過ごすことになった。
水道とは湖底の水をそのまま汲み上げたものだった。
フラフラとデッキに出て、澄んだ空を映す水面を眺めている内に、
小舟の人となり、ユラユラと湖水を漂う絵ができた。
そして、私も小舟に乗って遊覧してみたいと思った。

伝馬船の乗客になって乗り込む先に、
こちらを向いてなにやら怪しげな二人の男が
肩を寄せ合って安楽椅子に寝転んでいる。
「今日は!」と今度は元気に挨拶を交わそうとしたところ、
向かいの櫓をこぐ船頭と目が合い、
何やら「止めとけ」と合図するのだった。
インドをここまで北に登ってきたのだ。
ヒマラヤ山脈はもう間近。雪のない今の時期なら入山可能だ。
と旧チベット圏のレー(ラダック地方)へと足を伸ばすことにした。
「止めとけ」と目くばせする人は誰もいなかった……。


建築家 村山雄一(むらやま たけかず)

1945年北京生まれ、佐賀県出身。早稲田大学理工学部建築学科卒業後、76年に一級建築士免許を取得。その後、旧西ドイツに渡り、ルドルフ・シュタイナーの人智学思想の研究。その間、ヨーロッパ各国をスケッチ旅行、ギリシャ、トルコ、エジプト、インド、ヒマラヤにも及ぶ。西ドイツ、オーストリアの建築事務所勤務を経て84年に帰国、横浜に村山建築設計事務所を設立。
http://www.murayama-arch.com

インタビュー記事はこちら


コラムを連載していた村山雄一さんが、23年5月9日に亡くなられました。
亡くなる直前までコラムの執筆を続けていました。

もう村山さんご本人には会えませんが、創った作品はのこり続け、触れることができます。
埼玉県飯能にある「トーベ・ヤンソンあけぼの子どもの森公園」は、ムーミン童話の精神を取り入れた公園です。

ふたつの酒とっくりの一つを逆さにして、そのふたつを抱き合わせたような姿をした「ムーミン屋敷」(現在は「きのこの家」に変更)、曲線を描く手すりや取っ手など、地元の西川材や珪藻土を使った建物が子どもはもちろん大人もワクワクする気持ちにさせてくれます。

水平と垂直の面で構成された四角い箱の中にいることに慣れている私たちですが、曲面がもたらす柔らかさと温かさが心地よいのは、自然界にあるものすべてが本当は曲線だからかもしれません。

公園は入場無料でみんなに解放されているので、ぜひ足を運び柔らかな空間を味わってみてほしいと思います。
村山雄一様のご冥福を心よりお祈りいたします。


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