Creators Column

旅のスケッチ 道行く人の語らい #1

建築家 / 村山雄一

《2026年までの完成は無理である 》とのメールが世界をかけめぐった……。

1978年の夏、私は建設中のサグラダ・ファミリア教会の現場で 完成して間もない「誕生の門」の前に立っていた。
「機能的なものは美しい」というスローガンのもと装飾性を排した近代建築の旗手ル・コルヴィジェとの論争の中でスペインの画家ダリは、
「建築はもっと毛深いものである」と主張して止めなかった。
おそらく、画家ダリには、この教会のことが念頭にあったのだろう。

この建物の外観はなぜこのように豊穣なのだろうか……。
「機能的」とか「毛深い」とか言う前に、私はこういうときいつもクルミの実の話を思い出す。
クルミを割って中の実を取り出すと、そこには固い外皮と同じ形をしたクルミの実が現れる。
つまり、外皮としての建物の形は内部空間の内容によって必然的に決まってくるという事実である。

だが、この建物を外から見ていると、そうした考えの枠を超えている気がしてくる。
ヨシ、それならその枠を超えているところを実感してみたい、とこれは暑い夏の盛り、立ちっぱなしで描いたサグラダ・ファミリア教会の「誕生の門」のスケッチである。

「誕生の門」の入り口上方には、跪き両手で支えた幼子(おさなご)を、前へ差し出すマリア。
そのかたわらのヨゼフは幼子を見て驚き、畏敬の念にうたれてもち上がった手の動き。
そして、この光景を祝福するかのように、音楽を奏でる4人の楽師たち……。

イエスの誕生という聖書の中の一場面を象徴する外観である。

この建物は外という外部空間でありながら人を内部へといざなうように出来ているのだろうか……。

マリア像はクルミの実なのだ。
形骸化したマリア像ではなく、そこにあるのはその内容そのものである。

そして、キリストとは形なく生き続ける生命の流れの中に落ちた石である。
石は深く底に沈み、失われた言葉となる。
その言葉を意識の上にのぼらせ認識することこそキリスト教の本心に近づくのではなかろうか。

聖堂の完成日はまた遠くに待たされることになってしまった。
だったら今、ここに私が聖堂に成ったらいい。
そして失われた言葉を己の魂の内に見出し、響かせるのである。
「誕生の門」。それは私のクルミの実であった。


建築家 村山雄一(むらやま たけかず)

1945年北京生まれ、佐賀県出身。早稲田大学理工学部建築学科卒業後、76年に一級建築士免許を取得。その後、旧西ドイツに渡り、ルドルフ・シュタイナーの人智学思想の研究。その間、ヨーロッパ各国をスケッチ旅行、ギリシャ、トルコ、エジプト、インド、ヒマラヤにも及ぶ。西ドイツ、オーストリアの建築事務所勤務を経て84年に帰国、横浜に村山建築設計事務所を設立。
http://www.murayama-arch.com

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