フランツ・カフカ
20世紀を代表するチェコ生まれのユダヤ人作家。
『変身』に代表される、シュールで不条理な世界観は、
それまでの文学になく世界中に影響を与えた。
From Wikimedia Commons
1883年、プラハでカフカは生まれた。ユダヤ人の父は活力あふれる商人で高級小間物商を営み、経営者としても家長としても強い力を発揮していた。内気で瞑想的な気質を持つ母の血筋を受け継いだカフカは、この強い父親に対して生涯、抵抗感を持っていたようだ。
当時、オーストリア・ハンガリー帝国の領域にあったプラハでカフカはドイツ語で教育を受け、青年期までほとんど自らをユダヤ人として意識することはなかった。1901年18歳の時、プラハ大学に入学。当初は哲学専攻を希望していたが、父から反対されたため、興味のあった化学を学ぶが最終的には父の意志に従い法律を専攻した。この時期、生涯の友となるマックス・ブロートと出会う。
1906年、23歳の時、法学博士号を取得。25歳の時、王立労災保険局に就職した。以後、カフカはほぼ生涯に渡ってこの職場で勤め続ける。比較的時間に余裕のある職場で、地位としてもかなり優遇され、彼の勤務態度は非常にまじめだった。8時から働き、14時頃までに仕事を終えると、午後から深夜まで個人的な文章を書いていた。彼の書く日記は、深い内面生活を形成してゆく創作上の訓練の場であった。書くことだけが、かろうじて生きることを支えているという、人間としての極限状況が読み取れる。
1909年、26歳の時、『祈るひととの対話』『酔っぱらいとの対話』をヒューペリオン誌に発表。1912年、29歳の時、最初の恋人、フェリーツェ・バウアーと出会う。この年、『判決』『火夫』『変身』を執筆。また、短編集『観察』を出版している。
1914年、31歳の時、フェリーツェと婚約。しかし、翌月、婚約を破棄。彼女との関係は、カフカの創作意欲をかき立てたが、同時に苦悩も生むものだった。この頃、『アメリカ(失踪者)』『審判』『流刑地にて』などを次々と執筆し、文学界からの評価も高まりつつあった。ただ、カフカ自身は、自分の作品に満足できず、多くの作品を自ら焼き捨てていたようだ。自分の生命を満足に生きていないという罪責感情が常に彼の心の中にはあったと思われる。
1917年、34歳の時、カフカは療養のため、妹のオットラが農地を借りていたチェーラウという村へ引っ越し、創作活動を始めている。30代に入ってからユダヤ人としてのアイデンティティに目覚めた彼は、書きためた短編をマルティン・ブーバーに宛てて送ってもいる。また、フェリーツェと二度目の婚約をするが、直後に、結核による喀血のため再び婚約を破棄。その後、彼は3人の女性と関係を持つが、いずれも家庭を持つまでには至らなかった。
1919年、カフカは父ヘルマンと関係を改善させるために便箋で100枚に及ぶ長文の手紙を綴った。内容は、カフカがなぜ父を恐れるのか、父の理不尽さによっていかに自分が変容していったかなど、父に理解を求めるものだったが、母と妹の判断によって父親の目に触れることはなかった。
様々な保養地を回りながら執筆を続けていたカフカは40歳の時、半年だけベルリンに住む。しかし翌年に健康状態が悪化、ウィーン郊外のサナトリウムで療養中に喉頭結核のため死去した。41歳だった。
その後、第二次世界大戦が起こりユダヤ人だったカフカの作品も弾圧されかねない状況にあった。親友のブロートはカフカの遺稿をナチスの手から守り戦後の1958年カフカの作品を整理し全集を刊行。これがサルトルなどの知識人に絶賛され、その後世界的なブームとなった。
どこにも安住できない孤独なアイデンティティ。現実と非現実が混じり合う境界の消滅。カフカはそれまでの人間像、社会観の不確実性を鋭く見抜き、文学という形に結晶して見せた。もしかしたら、彼の作品こそ近代から現代へと時代が移るターニング・ポイントだったのかもしれない。
Related Books
変身
カフカ
新潮社
352円(税込)
※店頭在庫終了次第440円(税込)に変更になります。
ある朝、夢から目を覚ますと自分が一匹の巨大な虫に変身していた……。カフカの最高傑作『変身』は、その衝撃的な内容と淡々とした文体によって文学界に衝撃を与えた。この小説をどのように解釈すればよいのか。本書は今も、読者を挑発し続ける。